No.202110
わたしの名によって求めることは何でも、
それをしましょう。
またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。(ヨハネの福音書14章13、14節)
私は何とかして皆さんの祈りが神に届き、答えられるようにと切に願っています。今回のイエスのことばは、神が私たちの祈りを聞き、私たちの求めにこたえてくださることを約束しています。では、私たちの祈りはどんなに身勝手なものであってもその通りになるのでしょうか。もし、そうだとしたら、大変なことになりかねません。ほんの目先のことだけにしか知恵の及ばない私たちは、自分が何を願っていて、それがどのような結果をもたらし、どのように私たちの人生に影響していくものか分かっていないからです。けれども、神は全てご存知です。
確かに神は私たちの祈りと願いを全て聞いておられます。私たちひとりひとりのことを私たち自身よりもよくご存知です。ですから、私たちにとって何が最善であるのかをも知っておられるのです。もし私たちが神の思いを少しでも知ったなら、私たちの祈りは大きく変わることでしょう。
祈りが聞かれるためには、私たちがまず神との関係をしっかりと築くことが大切です。小さな子供でも、関係のない人や知らない人におねだりすることはありません。でも、親や、自分を可愛がってくれる人には遠慮なく求めます。神との親しい関係を築くことが答えられる祈りの第一歩です。
ではどうしたら、私たちは神と親しい間柄になれるのでしょうか。
人は罪を犯して以来、神との親しい関係を失ってしまいました。神のことばを直接聞いて、それを人々に伝えていた神の人、モーセをはじめ、イスラエルの預言者たちでさえ、神を直接に見ることはできませんでした。預言者たちは、罪深い人間が、神の姿を直接見たら、生きてはいられないことをよく知っていたからです。神の完全な聖さ、偉大さ、強さの前にはどんな偉大な預言者であっても、恐れおののくしかありませんでした。
彼らは神の臨在を強く感じた時、ただ恐れ、顔を伏せて身を隠したことが記録されています。まして、一般の人々にとって神は遥かに遠い存在でした。
人は神を見失い、神がどのような方であるのか分からなくなりました。しかし、神の御子が人となってこの世に来られた時から、事態は一変しました。
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。(ヨハネの福音書1章18節)
こうして全く新しい神との関係が始まりました。イエスが神の真のお姿を示してくださったからです。イエスは言われました。
「わたしを見た者は、父を見たのです」(ヨハネの福音書14章9節)
それだけではありません。イエスは、神でありながら人間の痛みや苦しみを自から経験なさり、それらの痛みや苦しみの根源である罪を私たちの代わりに負ってくださったのです。預言者イザヤは、それをこう預言していました。
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ書53章4、5節)
イエスが私たちに代わって罪の代価として命をささげてくださった故に、私たちと神との間に立ちはだかっていた堅い壁は崩れ落ちました。私たちは何の妨げもなく、神と語り、神に祈り、神と交わることが出来るようになりました。
あなたはイエスが、あなたの罪の代価を十字架の上で全て支払い、神と和解させてくださったことを信じておられますか。もしそうなら、あなたはすでに神の子どもです。何の遠慮がいるでしょう。イエスは、「わたしの名によって何でも求めなさい」と言われました。イエスの名を通して、どんなことでも神に求めることが出来るのです。「わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう」ともイエスは言っておられます。
私たちは祈りの最後に「イエスの名によってお祈りいたします」と言いますが、これは祈りの形式を整えるために付け加えているのではありません。
「イエスの名」とはイエスの全人格、イエスが私たちのためにしてくださった贖いのわざの全てを表しています。イエスの名によってのみ、私たちは神に近づく資格を与えられているのです。
イエスだけが、私たちと神とをつないでくださるお方です。イエスの名によって祈る時、神はその祈りを受け入れて、私たちの願いを聞いてくださいます。
イエスがあなたの心に住んでいてくださるなら、どんな時でも、イエスの名によって祈ることが出来ます。そうすれば、イエスがそれをしてくださる、と約束しておられます。何を恐れ、何を思い悩み、心配することがあるでしょう。