No.202111
狭い門から入りなさい。
狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。(マタイの福音書7章13,14節)
このことばだけによって私たちの人生の生き方を決めようとすると、常に狭い道、苦労の多い道を選ばなければならないように感じるかもしれません。「あえて誰もが行きたがらないような苦労の多い道を通らなければ、いのちに至ることはできない」、と思う人が多いようです。けれども実際には、私たちのために命に至る道を開いてくださった方は、「狭い門から入りなさい」と言っておられるイエスご自身です。ですから、いのちに至る道をあえて難しくしておられるわけではありません。むしろ命への道を通りやすくしておられるのです。
ヨハネの福音書10章2-4節を見ると、羊飼いが羊たちを牧草地に導くために、狭い門を通らせて牧草地に連れていく様子が書かれています。
しかし、門から入る者は、その羊の牧者です。門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。
羊は一度に広い野原に放たれるとそれぞれ勝手な道に進んでいってしまい、元には戻れなくなってしまいます。そうなってから羊たちを小屋に集めるのは大変です。そこで、羊小屋の周りに垣を巡らし、一つの狭い門をつくり、そこをくぐらせて、道をそれることなく迷わずにその細い道を辿って羊飼いの後について行き、牧草地にたどり着くのです。
羊たちを勝手に思い思いの方向に行かせるのではなく、狭い門をくぐらせ皆が羊飼いの後について行き、安全に牧草地にたどり着けるようにするのです。ばらばらに勝手な道を行かせては、多くの羊が危険な道に迷い出たり牧草地に行き着けなかったり狼の餌食になったりしてしまいます。
私たちが良い羊飼いである主に安全に導かれている羊であることが、ダビデの詩篇の中に美しく書かれています。
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。(詩篇23篇1-3節)
ですから、イエスが「狭い門から入りなさい」と言っておられるのは、難しい困難な道を行かなければ、絶大な価値のある永遠のいのちには到達できない、という意味ではありません。いのちに至るのにふさわしい門を通って、ゴールに続く道を行きなさいと言っておられるのです。
私の高校時代には多くの仲間たちが東大を目指していました。確かに当時は、今もそうですが、東大への入学は‘狭き門’と言われていました。そして、多くの仲間たちが何年も浪人をして東大入学を目指していました。
けれどもイエスが言われるのはそのような狭さではありません。命に至る道は、東大のように定員が決まっていて、一定の数しか入れない狭い門とは違います。その道を真剣に目指す人なら誰でも入って行けるのです。けれどもそこを目指す人が少ないので、イエスは「誰もが行く広い道ではなく、たとえそこを行く人が少なくても、いのちに至る道を選びなさい」と言っておられるのです。困難の道が正しい道であり、やさしい道が滅びへの道というのではありません。
ではイエスが言われる狭い門、細い道は、私たちにとってどんな道でしょう。それはイエス・キリストの十字架によって開かれた道です。そこは自分こそ正しいと胸を張り大手を振って傲慢な態度で歩けるほど大きな門ではなく広い道でもありません。しかし、自分の弱さ、罪深さを認めるへりくだった心を持っていれば、誰でも通って行ける道なのです。
人は誰でも罪を犯しやすい性質を持っています。実際に全ての人が大小、少なからず罪を犯しています。永遠から永遠を支配しておられる神は、正義の神です。どんなに小さな罪もそのまま赦すことはできません。
罪を犯して神を離れてしまった私たちは、神の求める正義に戻ることはできません。どんなに難行苦行をしても、神の与えてくださった完全な聖さには戻れないのです。神に背いた罪の代償は永遠の滅びである死以外にはありません。けれども、人類を創造なさった神は、最後まで私たちを愛し通されました。そのために、神ご自身が人となって地上に生まれてくださいました。私たちの罪を全てその身に負って贖いの死を遂げるためでした。
馬小屋に眠る幼子イエスは、父なる神との深い交わりの中に成長なさり、十字架への道をためらうことなく、まっすぐに進んで行かれました。
それについては、次号のクリスマス号でまたお話しします。