No.202112
人の子がきたのは、
失われたものを尋ね出して救うためである
クリスマスは人類の歴史上にただ一度だけ起った驚くべき出来事を記憶するための大切な日です。ありとあらゆるものの根源であり、全てを創造なさった神が人となってこの世に生まれたことを記念する日だからです。それは今から2000年ほど前に実現しました。しかも、王の宮殿にではなく、へりくだってベツレヘムという小さな村の馬小屋の中で生まれたのです。
イエスはしばしばご自分のことを‘人の子’と言われました。それは、イエスは神ご自身でありながら人となってこの世に来られた方だからです。
人は神を直接見ることはできませんし、見た者もいません。けれども神が私たちと同じ人の姿になって私たちの世界に来られたら、本質的には神であってもその方を私たちと同じ人として見たり感じたりして知ることが出来るのです。
イエス・キリストの生涯は聖書だけではなく、ジョセフスやタキトウスなど一般的によく知られている歴史家たちの書にも記録されている歴史的な事実です。イエスは歴史上に実際に生きて活動なさったのです。決して神話や作り話ではありません。
人は創造主である神と交わりのできる霊的な存在として創られ、生まれてきました。神は人に自由意思を与え、自分の意志で神の喜ばれるような、神の友として生きることを願われたのです。けれども、人は神が願われた生き方を外れて、与えられた自由意思で、神から離れて自分の欲望のままに生きることを選んでしまったのです。本来の生き方から外れたため、自ら悩みと苦しみを招き、もはや自分を創造し生かしてくださっている神をはっきりと認識することもできなくなりました。まして、こちらから神に近づく方法はどこにもありません。それが罪の根源なのです。
イエスはそんな私たち人間の姿を「失われたもの」と呼んでおられるのです。あなたは物をなくして困ったことがおありでしょう。私もよくなくします。財布、車の鍵、スマホ、など毎日のように大騒ぎして探しています。「失われたもの」の方から持ち主を探すことはできません。持ち主が見つけ出してくれなければ、そのまま何の役にも立たないで朽ち果てるしかないのです。しかし、私たちを愛してやまない神は私たちをあきらめることはなさいませんでした。
私たちの創造主であり持ち主であられる神は失われた私たちを探し求めるために地上に来てくださいました。
その方の名はイエス、神ご自身がそう名付けられたのです。この地上で父としての役割を担うようにと選ばれたヨセフに主の御使いが現われて、「その名をイエスと名付けなさい」と告げたからです。その名は「主は救いたもう」という意味です。
主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(マタイの福音書1章20-21節)
人の子イエスはその名の通り失われたものを尋ねだして救うために全生涯をささげてくださいました。
ですからイエスを救い主として信じて受け入れる人は全ての罪がゆるされて神の子どもとして受け入れられるのです。
イエスは傲慢な若者だった私を60数年前に尋ねだして救ってくださいました。私の身に起こった最大の奇跡でした。この奇跡はあなたにも既に起こったでしょうか。それならば大いに喜び、感謝してください。もしまだでしたら、今すぐにイエスを心にお迎えください。
あなたを探して危険な山や谷を巡り歩き、傷だらけになっておられるイエスの姿を思い描いてください。イエスはあなたのために血を流してくださいました。
イエスご自身がこう言われました。
「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。(ルカの福音書15章4-6節)
今年もご一緒に、クリスマスを喜ばしいお祝いの日として迎えようではありませんか。