No.202201
わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら
何でも欲しいものを求めなさい。
あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。
(ヨハネの福音書15章7節)
イエスのことばの一言一句が、私たちに日々いのちを与えてくれます。
「わたしは道であり、真理であり、いのちです」とイエスは言われました。
今回のイエスのことばは、イエスが12人の弟子と共に過ごされた最後の夜に言われたことの一つです。いわば弟子たちへの遺言です。この夜のうちにイエスはゲッセマネの園で、ユダヤ人の指導者たちが差し向けた兵士や役人たちに捕らえられて、総督ピラトのもとに引き立てられていきます。そこで裁判と拷問を受けた後に十字架にかけられることになるのです。イエスはそれを全て承知しておられました。それが神の救いの御計画であることも知っておられました。
イエスは弟子たちから去って行く前に、しっかりと弟子たちに伝えておきたいことが山ほどあったに違いありません。
イエスのことばは弟子たちによって伝えられ、福音書の中に記録されました。私たちは今もイエスのことばを聞き、イエスの思いを知ることが出来るのです。
「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい」とイエスは言われました。
欲しい物とはどんなもののことでしょう。
[欲しい]という言葉を英語では”WANT“ と言います。それは「足りない」、「不足している」と言う時と同じ言葉です。
詩篇23篇でダビデはこう歌っています。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません」 この「乏しいことがない」という言葉も同じで、これ以上欲しい物がない、満ち足りている、という意味です。この時のダビデは王ではなく、ただの羊飼いの少年でした。
イエスは明日の食べ物さえない貧しさからは助け出してくださいますが、あなたをいきなり大金持ちにしてはくださらないでしょう。大金持ちになることはあなたの責任だからです。経済的に豊かになるための努力と苦労があなたの人生を豊かにするのです。
10秒を切る速さで100メートルを走れる強い頑丈な体にしてくださいと願うなら、それはあなたの厳しい鍛錬と努力との結果として得られるものです。
イエスのなさる奇跡は、私たちが標準以下の状態になっている時に、標準の状態に引き戻してくれるのです。
目の見えない人を目が見えるようにしてくださいました。足が不自由で働けない人を歩けるようにしてくださいました。
欲しいものを求めることは、欲張って普通以上のものを求めることではなく何らかの理由で私たちに「足りないもの」を満たされるように求めることです。それ以上は私たちひとり一人に任されているのです。
あなたはいつもイエスの中にとどまっておられますか。イエスにとどまっているということは、いつもイエスとつながっていることです。
何年も前のことですが、幼い孫たちに会いにアメリカに行った時のことです。日曜日にそろって教会に出かけました。私たちが車を降りて広い駐車場の中を教会堂に向かって歩いていた時、「危ないから、おじいちゃんと手をつないで行きなさい」と父親に言われた孫は、小さな手で私の手をしっかりと握りました。その柔らかく温かい手の感触が伝わってきたとき私は、たとえ大型ダンプが突進して来ても、この子を守ってあげなくては、という気持ちになりました。
イエスにつながっているということはイエスに全面的な信頼を置くことです。イエスの御手をしっかりと握ることです。その手を離すことなく、イエスにとどまって、イエスのことばをいつも私たちの中に蓄えておくことです。そこから本当の自分の力を発揮することができるようになるからです。
私たちは日々多くの問題や危険にさらされています。悲しいことも、つらいこともあります。病気もあり、痛みも経験します。けれども勇気を出してください。イエスと共にいることによって、それらを克服して前に進むことができます。
イエスは言われました。
「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。 わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネの福音書16章33節)
イエスは、弱い欠点だらけの弟子たちを心にかけ、最後まで愛し通されました。それが、このことばからも良く伝わってきます。
イエスとそのみことばに従っているあなたのことも、イエスは同じように心にかけてくださっています。ですから、どうか日々イエスにとどまり、イエスのことばを心にとめてお過ごしください。
こういう日々の積み重ねが私たちを育て、神の息子、娘として輝かせてくれると、私は期待しています。