祝福のメッセージ:2022ー02

 No.202202

初めにことばがあった
ことばは神であった
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた

 ことばは目で見たり、手で触ったりできませんが、人が互いに意志を伝え合うために大切な手段です。ことばがあるおかげで私たちは喜びも悲しみも、自分だけで抱えているのではなく、それを他の人にも伝えることも出来ます。それを受け取った人もその人の気持ちを理解して共に喜び、共に悲しむことができるのです。それだけではありません。目に見えない、手で触れることもできないことばによる交流を通して、その人がどのような人なのかを知ることもできるのです。こうして、人と人との親しい関係や交流が生まれるのです。

 神と人との関係も同じように、「ことば」によって始まりました。けれども、神がお用いになった「ことば」は、日本語や英語のようなことばのことを言っておられるのではありません。もっと広い意味で、人格と人格の間の交流をもたらす意志伝達手段のことです。

 みなさんの中にペットを飼っている方もおられるかもしれませんが、ペットが病気になったり、いつもと違った症状を示して、苦しんでいたりするのを経験することもあるかも知れません。動物病院に連れて行ったりペットについての本を読んだりしてもどうしても分からないで困ってしまうことはありませんか。そんな時、もし自分が同じペットの一人(一匹)になって、そのことばが理解できて、その訴えを聞いてあげられたらどんなにいいかと思うことでしょう。

 神はあらゆる状況や出来事、また自然界の秩序ある営みを通して私たちに語りかけ続けておられます。私たちがまだそれに気づいていないことがたくさんあります。私たちもまた、祈りを通して神に語りかけることができます。

 無神論者達はクリスチャンにこう言います。「神がいるなら見せてくれ」。

 神は私たちの目で見たり手で触れたりして知ることができるような方ではありませんが神は確かに存在しておられます。私たちが生まれる前、人類が存在し始めるよりも更に前から、地球や宇宙そのものが存在し始める前から神は存在しておられたのです。それなのに、はるかに遅れて存在し始め、やっと深遠な宇宙の謎を少しばかり探り出して研究している小さな私たちが、どうして神の存在を否定できるというのでしょう。どんなに高性能の望遠鏡や、優れたコンピューターで計算しても、どんなに進んだ哲学や理論を駆使しても、それによってでは神を知ることはできません。けれども、神はご自分の存在を私たち一人一人に最も良い方法で分からせてくださっています。ですから私たちは神の存在を知ることも感じることもできるのです。聖書は「神はことばとなって私たちの間に住まわれた」と教えています。ですから、私たちは神のことばである聖書とその歴史の中から神の存在を知ることが出来るのです。

 けれども聖書が伝えているのはもっとも重要な語りかけです。「神のことば」は、神と同じ人格(神格)を持って私たちが住むこの世に来られた神ご自身(神の独り子と呼ばれている)とその方の生涯を通して私たちに語りかけて、大切な神から人類へのメッセージを伝えておられるのです。

 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 (ヨハネの福音書1章1節)

 神のご意志を伝える「ことば」となって私たちの世界に来られたイエスは神ご自身であり、その教えと品性と生涯を通して、今も語りかけておられます。

 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネの福音書1章14節)

 イエスを知ることは神を知ることであり、その教えを学ぶことは神の声を聞くことです。そしてイエスの名を通して祈ることは神に語りかけることです。

 私たちはこのようにして神に近づき、神の存在を感じ、神の声を聞き、神との交わりを通して、ますます深く神の恵みを知るようになるのです。

 私たちが祈る時、神はすでに私たちのすぐ近くにおられることに気づかせてくださいます。あなたは祈っているとき、「この祈りは聞かれる」と感じたことはありませんか。私は良くあります。そのような時は、祈りが聞かれることよりも「神が私の祈りを聞いてくださっている」という安心感の方が心に大きく広がって、喜びに溢れます。

 あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。(ヨハネの福音書14章13節) とイエスが言われたのはそのことです。祈りが聞かれるのは、子どもの言うことを何でもきいて甘やかせて、わがままな子どもに育ててしまうお父さんとは違います。祈りを通して、神と交わりを持つ時、神は私たちの気持ちを共有してくださっているのです。ですからたとい私たちが祈った通りにならないことがあったとしても、私のためにはその方が良かったことが納得できて、決して失望したり恨んだりする必要がなくなるのです。

 神は私たちから遠く離れた方ではありません。いつでも私たちの近くにおられて、私たちの祈りを聞いてくださっています。私たちの一部始終を見守ってくださっているのです。