祝福のメッセージ:2022ー04

No.202204

人の子は三日目によみがえります。

 人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるために、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。
(マタイの福音書20章18-19章)

 イエスがご自分の死と復活について弟子たちに予告なさったのはこの箇所で3度目です。いずれの場合にも、捕らえられ、苦しみを受け、十字架につけられることを明言なさいました。しかし、初めてこの予告を聞いた時、弟子たちには到底信じられず、どう受け止めて良いのか、とまどっていました。実際に大勢の群衆に囲まれて神の国について教え、癒しと奇跡のわざを行なっておられたイエスが捕らえられ、その上、十字架刑で命を落とされるなどとはありえないことだと思われました。三日目の復活についても何かのたとえだと思っていたかもしれません。イエスの一番弟子で、おそらくイエスよりも年長であったペテロは、この若き師を引き寄せていさめさえしました。(マタイ16:21)

 「先生、とんでもない、そんなことがあっていいはずがありません。」するとイエスはペテロを厳しくお叱りになりました。イエスの受難と死は不運な成り行きではなく初めから神の救いのご計画であったからです。

 実際にその時が近づいて、ユダヤ人の指導者たち、特に律法学者や祭司長たちとの対立が顕著になると、弟子たちはそれを真剣に受け止めて不安になり始めました。イエスは死の予告と同時に復活も予告なさいましたが、目前に迫る死があまりにも衝撃的だったので、その後に来る復活のことは弟子たちの心に届かなかったようです。

 最後の晩餐の席ではイエスは間もなく訪れるご自分の死の意味についてお語りになりました。

 また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった「みな、この杯から飲みなさいこれは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。マタイの福音書26章26-28節

 その後イエスは弟子たちと一緒にゲッセマネの園に行き、そこで祈っておられた時、ユダヤ人の指導者たちが送った兵士たちの手によって捕らえられて最後には、ローマ総督ピラトの前に引き出されます。総督が「イエスには罪が認められない」と宣告したにもかかわらず、ユダヤ人の指導者たちは群衆を扇動して騒ぎを起こさせ、十字架刑にせざるを得ないよう仕向けたのです。こうして何の罪もない神の御子イエスが「世の罪を取り除く神の小羊」となって十字架にかけられました。時はまさに過ぎ越しの祭りの時でした。

 昔、イスラエルの民がモーセに率いられてエジプトを脱出した時、小羊の血によって神のさばきを逃れたことを記念する祭りです。これはキリストの贖いを象徴する出来事でした。

 十字架上で、イエスは私たちに代わって神に見捨てられ、苦悩のうちに息を引き取り、彼を慕う人々の手で墓に葬られました。多くの人々がそれを目撃しました。死が完全に勝利したように見えました。

 しかし三日目、週の初めの日の朝早く、墓を訪れた婦人たちが見たのは、からになった墓と、光輝く衣を着た二人の人の姿でした。彼らは言いました。

 「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」 女たちはイエスのみことばを思い出した。(ルカの福音書2458節)

 ハレルヤ!イエスは復活なさいました。

 そして、多くの弟子たちの前に姿を現され、40日の間ご自分が生きておられることを証明なさった後、父なる神のみもとにお帰りになりました。今、私たちはイエスの人としての姿を見ることはできませんが、イエスが私たちのもとに遣わしてくださった聖霊が、あなたにも私にもイエスの臨在を証ししてくださっています。

 神はイエスを信じる私たちにも復活の命、永遠のいのちを与えてくださいます。いや、すでに与えてくださっているのです。それは植物に例えて言えば新芽のようなもので私たちがこの地上にいる間は完全には現われません。 しかしやがて満開に花咲く時が来ます。その時の永遠のいのちがどんなものかは、まだ私には分かりませんが、想像をはるかに超える栄光に溢れたものに違いありません。たとえ生命科学で命の神秘が解明されたとしても、宇宙の謎が全て明らかにされたとしても、それでは説明のできない、全く違う世界、神が完全に支配なさる世界なのです。

 その世界で、主イエスが生きておられるように私たちも生きるのです。

 その日まで、その芽を大切に育てながら、この地上の人生もイエスと共に生きてまいりましょう。