祝福のメッセージ:2022ー05

No.202205

自分の敵を愛し、
自分を迫害する者のために祈りなさい。

  「あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。(マタイの福音書5章43―45節)

 人を愛することは大切です。イエスは愛することを何度も教えておられます。あなたの敵を愛しなさいとさえ言っておられます。

 確かに人を憎むよりも愛する方が正しいと、平穏に暮らしている時は誰でも思うでしょう。けれども、敵対する人が目の前に現れたらその人を本当に愛することはそう簡単なことではありません。

 イエスが教えておられる愛は、私たちが感じているような、自分が気に入ったものや、愛する価値があると感じるもの対して自然に湧いてくる愛ではなく、それをはるかに超えたものです。そこに必要なのは神のみことばを基準にして理性的に自分の感情をコントロールすることです。

 ダビデは多くの敵に追われ、命を狙われ、山地をさまよったこともありました。そんな時彼は神に向かって助けを求めました。彼の悲痛な叫びは詩篇の中にたくさん記されています。

 私たちも神に向かって泣き叫んでもいいのです。けれどもその後のことは神にお任せしましょう。いつまでもそこに留まって苦しんでいないで顔をあげて前に進みましょう。それが憎しみから解放される道です。

 敵を憎んでも何の益もありません。復讐はさらなる復讐を招くだけです。日本では古くから、「仇討ち」という思想がありました。不当な仕打ちを受けた親や主君のために命をかけて復讐するのが忠誠心だと思われていました。復讐を美化していたのです。当時の文化はそれを受け入れていましたが、今では社会はそれが誤りであることを知っています。しかし、個人の心の中は大して変わっていないかもしれません。

 ですから、自分が大切にしている人や物に害を加えられることに対しては「赦せない」という気持ちを持つことはごく自然なことでしょう。

 イエスが「敵を愛しなさい」と言われたのには大きな理由があります。敵を守るためにそう言われたのではありません。ただ我慢しなさいと言われたのでもありません。そうではなく、復讐をしたいという危険な発想からあなたを守り、解放するためです。人を憎み続けることは決してその人を幸せにはしません。かえってみじめにするだけです。

 一時的な感情に支配されて、復讐心を持つと、あなたの中にある沢山の良い性質をだいなしにしてしまいます。全てのことを支配しておられる神を見上げて、相手の気持ちを理解しようとする優しい心で祈るとき、憎しみが和らいで、新しい関係が生まれてくるのです。そうすれば、「北風と太陽」の物語のように、相手の心を和らげて、正しい道に引き戻すことができるかもしれません。

 初めは、難しい、とてもできないと思われることでも、イエスのことばを信じて実行するなら、素晴らしい変化をあなたにもたらしてくれるのです。

 主イエスは自分を十字架に掛けた人々のためにこう祈られました。

 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカの福音書23章24節)

 イエスは敵の悪意やあざけりに愛をもって報い、彼らの無知や浅はかさを思いやり、深く憐れんでおられます。

 私たちはイエスの心の内を感じ取り、それを自分の心とすることが出来るでしょうか。そうすれば私たちはイエスが言われたように、天の父の子どもたちなのです。

 敵意や憎しみは、しばしば私たちの判断を狂わせて、とんでもない結果を招き、自分自身を不幸にしてしまいます。けれども、神の与えてくださる愛は、どんな弱い人にも力を与えて、正しい道へと導いてくれます。

 敵さえ愛して祈ることは、どんな武器よりも力があります。それが私たちの周囲から始まって、少しずつでも世界を変えていくことを願わずにはおられません。世界が憎しみと戦いに満ちている今だからこそ、私たちを含め全ての人に、イエスのこのことばが必要です。

 敵意は長年にわたって築き上げた全てのものを、一瞬にして破壊してしまいます。人間関係や文化や大切な人の命さえも奪い去ります。それを取り戻して何度もやり直せるほど人生は長くはありません。

 私たちも大切な時間を復讐心によって浪費するのではなく、愛と祈りで満たしましょう。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

 イエスを愛し、そのみことばに従って、敵のために祈ることさえできる広い心で、あなたに与えられている人生を大切に生きてください。