祝福のメッセージ:2022-06

No.202206

わたしの願いではなく、みこころがなりますように


わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように(マタイの福音書2642節)

 弟子たちと「過ぎ越を記念する食事」をなさっていた時、イエスはこれから起ころうとしていることを、一つ一つ細かくお話になりました。イエスは最後まで弟子たちをこの上なく愛し、心を備えさせるためにお話しになったのです。

 この情景は「最後の晩餐」と言われている、有名な絵画にもなっています。

 そこで、イエスはその席でいくつかの大切なことを弟子たちに言い残しておかれました。

 間もなく、イエスはこの世から去って行かれること、信じる者と共に住む永遠の住まいが用意されること、イエスか去った後、その教えに従う者には、助け主、聖霊が与えられること、知恵と力とによって、イエスの教えが全世界に広められること、激しい迫害の時代が来るが、信じる者たちのためイエスは再臨なさること、最後まで忠実な者は、救われること、などでした。

 その一つ一つが、私たちにとって大切で、心にとめておかなければならないことです。けれども、それには比べられないほど重大な事がイエスご自身に起ころうとしていました。弟子たちには、まだそれが分かっていませんでした。

 間もなく、イエスはユダヤ人の宗教的指導者たちに捕らえられて、神を冒涜した(自分を神であると主張した)罪で死刑を宣告されるのです。けれどもローマの支配下にあったユダヤ人には死刑を実行することは赦されていませんでした。そこで、彼らは、イエスをローマ総督ピラトに引き渡し、民衆を扇動してローマの手で死刑にさせるように迫ったのです。そうなることを既に知っておられたイエスは、弟子たちとゲッセマネの園に行き、祈られたのです。

 その時の祈りのことばを弟子たちは少し離れた所から聞いていましたが、そんな重大な時なのに、疲れて居眠りをしていた者もいました。

 イエスはご自分の身にどんな恐ろしいことが起こるのかをあらかじめ知っておられました。それは想像できないほどの残虐で恐ろしいことでした。

 十字架刑自体が残虐で恐ろしい刑です。けれどもそれ以上にイエスの心を痛めたのは、多くの力ある業によって、愛と哀れみの心を注いでこられた民衆が、宗教的指導者たちの扇動に乗せられて「十字架に掛かけろ」と叫んだことだったことでしょう。

 イエスは私たちと同じ人となってこの世に来られたのです。苦しみと痛みを私たちと同じようにお感じになりました。

 私たちと同じように、恐ろしいことは恐ろしい、苦しいことは苦しいとお感じになります。ですから、これからご自分の身にどんなことが起ころうとしているのかを知っておられましたが、私たちと同じ感情と肉体で父なる神のご計画をお受けにならなければならなかったのです。それは、罪とその結果による苦しみを私たちに代わってお受けになり、私たちを救うためでした。

 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。(ヘブル人への手紙 4章15)

 人となってこの世に生まれてくださった神の子イエスはこれからどんなことが起ろうとしているのかを全て知っておられましたが、それが神のご計画であり、人類を罪と罪の結果である大きな苦しみから私たちを救うためにはどうしても避けられないことでした。そのご計画を成しとげるために、この世に来られたのだからです。

 「わたしの願いではなく、あなたのみこころがなりますように」と祈られました。

 神であるイエスにはどんなことでもお出来になります。これからご自分の身に起ころうとしている恐ろしい杯を飲むという道を通る以外に人類を救う方法があれば、そうしたいと願われたのです。そこで「この恐ろしい杯をわたしから取り去ってください」と父なる神に祈られたのです。

 あなたは今、どんな悩み事を持っておられますか。何かあなたを苦しめていることがありますか。それに対して何かもっと良い道があると思いますか。それとも、それを神の御心であると信じて受け取り、その先にあることに希望を持ちますか。イエスはあなたの全ての事情を知ってくださっています。

 どんなことでも祈って神の助けを求め、それに向かって頑張ってください。思った通りにはうまくいかないこともあるかもしれませんが、それでもいいのです。神はあなたの精一杯の努力を見てくださるからです。

 それとも、全てを神にお任せして、イエスがなさったように「みこころがなりますように」と祈りますか。それでも良いのです。もしそうなら、イエスが祈られたように、全てを神にお任せして、どんな結果になるとしてもそれを受け入れる信仰を持ってください。

 神は真剣に立ち向かう者を失望させるようなことはなさいません。大切なのは、その結果を受け入れる決意と信仰です。信じて全てをお任せする者に対して、神が悪い結果をもたらされることは決してありません。

 イエスの祈りはそれを私たちに教えようとしておられたように思います。