祈りの家族への手紙:2022-08

 親愛なる祈りの家族の皆様
 祈りの家族の皆様の上に平安がありますよう。

 復活なさったイエスが、弟子たちの集まっていたところに現れてくださったとき開口一番に言われたことばは、「平安があなたがたにあるように」でした。それは「シャローム」というヘブライ語の挨拶のことばでした。「こんにちは」と訳してもいいほど一般的なことばです。

 けれども、イエスが弟子たちに「平安があるように」と言われたのは、ただ単に月並みの挨拶ではありませんでした。その時の弟子たちにはそのことばが最も必要だったのです。

 全てを捨ててイエスに従った弟子たちでしたが、主が十字架に掛けられてしまった今は、自分たちの上にも迫害の危険が迫っていて、不安でいっぱいだったからです。

 そんな彼らには、イエスからのこのことばほど心の休まる語りかけはなかったことでしょう。しかも、死を打ち破って復活なさったイエスご自身が彼らの前に現れてそう言われたのです。迫害の状況は変わりませんでしたが、彼らはどんなに喜び、安心したことでしょう。

 では、今の私たちはどうでしょう。記録的な猛暑、コロナの再拡大、戦争による世界経済の不安定、物価高。今こそ私たちには「シャローム」が必要です。あなたにとって本当の平安はどこから来るのでしょう。健康な体からですか。経済的な安定でしょうか。家族全員の無事でしょうか。それらはどれも大切ですが、それだけでは決して本当の平安はやってきません。たとえ得られたとしてもそれは一時的です。永久には続きません。

 弟子たちに語られたイエスの平安は、もっと大きな力を彼らに与えました。もう大丈夫です。これらからは復活のイエスがいつも共にいてくださるからです。

 イエスのことば、約束、語りかけを身近に感じるのはどのような時ですか。

 それはイエスのことばを読む時ではないでしょうか。日本の伝統的な宗教の影響を多かれ少なかれ受けている私たちは、自分勝手な神頼みの信仰にならないように注意する必要があります。

 そのためには、これまでの社会通念や自分の常識はさておいて、まず聖書の教えに土台を置くことが大切です。そこから出発しましょう。聖書こそ生きて働いておられる全知全能の神のことばであり私たちに対する愛に溢れた語りかけです。神は私たちと心を通わせてくださる方ですから、安心してみもとに近づきましょう。

 ただ最近私はこう思うのです。「私自身の狭い考えで、ああしてください、こうしてください、と主の行動を制限するようなことを言うのは、愚かなことかも知れない」。主から「本当にそれでいいのか?私はもっと良い事をあなたのために考えているのに」と言われそうな気がします。私たちの願いは、目先のことだけに偏りがちですが、神は私たちの願いや考えよりも遥かに大きく深い配慮で、私たちの祈りを聞いておられるからです。

 イエスの愛と思いやりの心をいつも身近に感じることができるよう、イエスのことばを心に蓄えていましょう。暗唱聖句をたくさん覚えましょう。そうすれば、必要な時に最も適切なみことばが心に思い浮かび私たちを助けてくれます。

 どんな時にもイエスがいつも共にいてくださることを忘れないで、聖書のことばを心に留めて、主イエスとの交わりの時を持ってください。あなたの心はきっと満たされます。

 何かをお願いする時だけではなく、日々イエスに心を向け、共に生きる毎日としてください。それこそ生きて働く信仰であり、祝福に満ちた人生の秘訣です。

 「良く分かりました。これからはもっと聖書のことば、イエスの教えを学びます。けれども、私は今、たった今、助けが必要なのです」とおっしゃるかも知れません。大丈夫です。イエスはそれもちゃんと理解してくださっています。日頃は大胆な信仰を持っていたペテロでさえ水の上を歩いてイエスのところに行ことしたとき、風と波を見て急に恐ろしくなり、沈みかけ「主よ、お助けください」と叫びました。するとイエスはすぐに手を伸ばして、彼を引き上げてくださいました。(マタイの福音書14章28,31節)

 イエスはどんな状況の時でも決してあなたをお見捨てにはなりません。あなたが助けを必要としているときには手を差し伸べて、「平安があるように」と声をかけてくださいます。

 あなたは今、心配事や不安を持っておられますか。イエスはそれを知っておられ、あなたのすぐそばに来てくださっています。あなたの不安な心をありのまま主イエスの前に差し出して、何でもお話ししていいのです。イエスはそれを感じて言ってくだいます。

 「シャローム。平安があなたにあるように」

 あなたは愛されています。 

レックス・ハンバード祈りの家族 

桜井 剛