No.202208
わたしに何をしてほしいのですか
イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道ばたにすわって、物ごいをしていた。群衆が通り過ぎる音を耳にして、彼は何事があるのかと尋ねた。ところが、ナザレのイエスがお通りなのだと聞かされたので、声をあげて、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんで下さい」と言った。先頭に立つ人々が彼をしかって黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけた、「ダビデの子よ、わたしをあわれんで下さい」。「わたしに何をしてほしいのか」とおたずねになると、「主よ、見えるようになることです」と答えた。そこでイエスは言われた、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」。すると彼は、たちまち見えるようになった。そして神をあがめながらイエスに従って行った。これを見て、人々はみな神をさんびした。(ルカの福音書18章35-43節)
イエスが今あなたに、「私に何をしてほしいのですか」と言われたら、あなたはどんなことをお求めになりますか。この盲人の場合はどうだったでしょうか。
イエスは弟子たちと共にエリコに行かれました。この町は昔、ヨシュアが周りを七回まわっただけで、闘うことなく征服したことで有名な歴史的な町です。首都エルサレムとは街道でつながっていましたので旅する人々にとっては重要な町でもありました。イエスも神の国の福音を伝えながら何度かここを訪れておられます。
ここにひとりの盲人がいて道行く人々に物乞いをしていました。彼は毎日どんな気持ちでそこに座っていたのでしょうか。自分は誰にも必要とされていない。誰の役にも立たない。いったい何のために生きているのか。そんな 空しさの中で生きていたのでしょう。
その中でただ一つ、希望となっていたのはナザレのイエスという方の噂でした。「その方が奇跡の数々や力あるわざを行なって、人々を助けておられるとか、もしかしたらその方が、ダビデの子孫として世に来られるというメシヤではないのか」と、ひそかに彼は待ち望んでいました。
突然あたりが騒がしくなりました。大勢の人々がざわめいて近づいてきました。この盲人は何の騒ぎだろうと思い、近くにいた人にたずねました。その人は、「ナザレのイエスがお通りになるのだ」と答えました。
ナザレのイエスと聞いて彼はすぐさま立ち上がって叫び始めました。
「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんで下さい」
この機会をのがしてはならないとばかりに、周りの人が彼をなだめて静めようとしていたにもかかわらず、大声で叫び続けたのです。
その叫びはイエスに届きました。イエスは「私に何をしてほしいのですか」とお尋ねになりました。もちろん彼の答えは、見えるようになることでした。
おそらくこの人は、目が見えるようになりさえすればどんな苦労もいとわず一生懸命に働いて、自分の家族にも、また周りの人にも救い主の愛と恵みを証しして、人々の役に立ちたいと思っていたに違いありません。イエスはその信仰の態度を受け取ってくださったのです。目が見えるようになること、それは彼にとってはただ単に周りの景色が見えるようになることだけではなかったのです。その後どう生きるかが大切なのです。
群衆の多くはイエスのなさる奇跡と力あるわざを見物するために集まっていました。ユダヤ人の指導者たちは、イエスが自分たちの律法に反することをしたらそれを口実にイエスをとらえて罰することを考えて目をこらしていました。そんな態度では、イエスのあとについて歩いていても、彼らの上には神のみわざは何も起こりません。けれども、この盲人はイエスに出会った瞬間に「神が約束された、ダビデの子、救い主よ、私を憐れんでください」と叫び、自分の願いの全てをイエスに告げたのです。
今は、人として現れてくださったイエスにお会いすることはできません。けれども、イエスご自身が約束してくださった通り、聖霊を通して、いつでも私たちのすぐそばに来てくださいます。この盲人のように、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫べばいいのです。主はすぐにあなたのそばに来て、「わたしに、何をしてほしいのか」、と声をかけてくださいます。自分の願いを告白する前に、まず救い主であり、あなたを救うことのできる力を持っておられるイエスがどんなお方かを心に留めていてください。そして、あなたの信仰を込めて力いっぱい呼びかけてください。そして、「私に何をしてほしいのか」と尋ねられたら、あなたの願いを主に向かって告白するのです。主はきっとあなたに答えてくださいます。けれどもそこで終わりではなく、そこからさらに素晴らしい事が始まるのだということを忘れないでください。
盲人だったこの人の場合はどうだったでしょうか。
「神をあがめながらイエスに従って行った」と書かれています。それを見ていた群衆も神を賛美しました。こうして、イエスの名前と、力あるわざの数々が、ますます多くの人々に伝わって行きました。神が私たちの願いを聞いてくださるのはそれを通して人々が神の恵みを知るためです。