祝福のメッセージ:2022-10

No.202210

ピンチは人生の輝きに変る

 「ガイロク」(街頭録音)という番組があります。(NHK) 道行く人々を呼び止めて「人生のピンチ」についてインタビューするのです。いろいろな方々がピンチにどう立ち向かい、そこから何を学んだかを聞くと共感を覚えます。

 私たちには万事を益としてくださる神が共におられるのですからピンチがピンチで終わることはありません。大きな成長と祝福への入口となるのです。

 そこで今回はマルコの人生のピンチから学びます。彼はヨハネ・マルコとも呼ばれ、誰よりも先にイエス・キリストの生涯を描いた人です。これがマルコの福音書です。しかしマルコは初めから立派な人だったのではなく、様々な挫折を通して成長していったのです。

 主イエスが福音宣教をお始めになり、しばしばエルサレムを訪れておられた頃、マルコはまだ若く、かなり裕福な家の息子として、エルサレムで暮らしていたと思われます。イエスの噂だけでなく実際にお姿を見て声を聴いていたでしょう。マルコは自分の名前を福音書に一度も記していませんが、イエスがゲッセマネで捕えられた時のエピソードを書いています。

 ある青年が、からだに亜麻布を一枚まとっただけでイエスについて行ったところ、人々が彼を捕らえようとした。すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、裸で逃げた。(マルコの福音書14章51-52節)

 聖書学者たちは、この人物はマルコ自身だったと考えています。マルコが、純粋だけれど少々愚かで滑稽な若き日の自分の姿を福音書にそっと書き入れていたと思うと何か微笑ましくもあります。

 この若者がマルコ自身だったとすると、これが彼の第一のピンチです。12弟子たちでさえイエスを見捨てて逃げてしまったとき、この若者はなおイエスについて行きました。彼のイエスを慕う気持ちは先輩の弟子たちに負けなかったのです。しかしそのイエスが、彼の目の前で捕らえられて翌日には十字架につけられてしまいました。彼がどれほど落胆したか想像してみてください。

 しかしこのピンチを克服したのは彼自身ではありません。イエスの復活がこのピンチを一瞬にして勝利に変えてしまいました。イエスは40日の間弟子たちにしばしば現れ、お教えになった後、父なる神のみもとにお帰りになりました。エルサレムでイエスの約束を待ち望んでいた弟子たちの上に聖霊が注がれました。そこから初代教会が誕生しました。

 たちまち迫害が教会を襲いました。そんな中で、マルコの母の家は使徒たちをはじめ多くの信徒たちの祈りの家となり、身を寄せる場所となりました。

 ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリアの家に行った。そこには多くの人々が集まって、祈っていた。(使徒行伝12章12節)

 最後の晩餐の部屋、ペンテコステに聖霊の注がれた部屋もこの家だったかも知れません。マルコは信徒たちとの交わりの中で多くを学んだことでしょう。

 ヨハネ・マルコ本人が聖書に登場するのは使徒行伝からです。

 マルコは使徒パウロと、初代教会の執事の一人であるバルナバの助手として伝道旅行について行きました。(使徒行伝13章)

 バルナバはいとこのマルコを鍛えて育てたいと思って連れて行ったのでしょう。この伝道旅行には聖霊の働きが顕著でしたが、同時に悪の力がそれを阻もうと必死で働いていました。マルコは恐れをなして途中でエルサレムに逃げ帰ってしまいました。(13章13節) ここでマルコは挫折し、大ピンチにおちいりました。彼は自分のふがいなさに失望して悶々と日を過ごしていたでしょう。一方、パウロとバルナバの伝道は多くの成果をあげました。マルコは彼らに合わせる顔もなく、閉じこもっていたかも知れません。

 この時、助けの手を伸べたのはやはりバルナバでした。マルコに2度目のチャンスを与えるために次の伝道旅行に連れていこうとしたのです。(15章37-39節) しかしパウロは、任務を途中で投げ出した者は連れて行かない方が良いと反対しました。またしてもピンチです。しかしパウロの厳しさもマルコには必要でした。その結果、パウロとバルナバはチームを解消して別々の方向に旅立ちました。バルナバはこんな犠牲を払ってでもマルコを助けたかったのです。その後のバルナバとマルコの伝道旅行について聖書は記録していませんが、、マルコは見事に立ち直って、やがて信頼できる働き人として登場します。その背後にバルナバの助けがあったことは明らかです。

 一度はマルコを駄目な人間として退けたパウロでさえ、後に彼を高く評価しています。福音のために獄につながれているパウロにとってマルコは大きな助けとなりました。(コロサイ人への手紙4章10節、テモテの手紙Ⅱ、4章11節)

 使徒ペテロも彼を愛して「私の子」とさえ呼んでいます。(1ペテロ5:13)この時マルコは迫害の渦巻くローマの都でペテロと共に命をかけていたことをうかがい知ることが出来ます。

 誰にでもピンチは訪れます。そのたびに主は臨在を持って励まし、また、誰かを通して助けの手を伸べてくださいます。私たちの人生は神の御手の中にあるからです。