No.202301
ピンチは人生の輝きに変る
その3
神は旧約聖書を通して約束しておられた約束の救い主をついにこの世につかわしてくださいました。私たちはそれを記念するクリスマスを祝ったばかりです。それは全ての人のための喜びのニュースでした。しかし、私たちがその喜びを味わうために、そのかげでピンチに陥り、苦悩した人がいます。それはヨセフです。彼はクリスマスの主人公ではなく、そっと寄り添う影のような存在で、人目を引くことはありません。しかしこの人なしには、神の救いのご計画は成り立ちませんでした。ヨセフはダビデ王の血筋ですが、当時は大工としてナザレに住んでいました。彼には同じナザレに住むマリアという婚約者がいました。二人とも心から神を愛する純粋な信仰の人でした。しかし、突然、ヨセフを打ちのめす出来事が起こりました。
母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。(マタイ1章18、19節)
まだいっしょにならないうちにマリアが身ごもったことを知って、ヨセフは愕然としました。マリアの裏切りを思うだけで耐えがたく、心は痛んだことでしょう。
当時の婚約は結婚と同様の法的、社会的な意味を持っていました。婚約中の裏切りは姦淫とみなされました。ヨセフは正しい人でしたから、もうマリアと結婚できないと思いました。しかし彼女の罪を公にして非難するのはもっとできないことでした。そんなことをすれば、マリアは世間の冷たい目にさらされ、さげすまれて一生を過ごすでしょう。そういう厳しい社会でした。ヨセフは正しいだけでなく、こんな時さえ相手を思いやる心優しい人でした。ピンチの中でも自分の品性を汚すことはしませんでした。
思い悩んでいたヨセフに神は驚くべき事実をお告げになりました。
「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(マタイ1章20,21節)
こうして神は、か弱い幼子として世に来られる救い主をヨセフの手にお預けになりました。これは今までこの世の誰にも与えられたことのない栄誉でした。しかし先には数々のピンチが待っていました。
その頃、ローマ皇帝アウグストから、住民登録の勅令が出ました。全ての人が自分の先祖の地に帰って登録することを求められたのです。ヨセフはマリアと共にナザレからダビデの町ベツレヘムに100キロを超える道を行くことになりました。臨月の近いマリアを連れての旅です。さぞ大変だったことでしょう。神のタイミングは完璧です。救い主はベツレヘムで誕生なさるはずだからです。
さらにピンチは続きます。やっとたどり着いたものの、各地から集まる人々で町はごったがえし、どの宿も満員で、家畜小屋しか二人の疲れた体を休める所はありませんでした。神の御子イエスはここでお生まれになったのです。
さらに幼子イエスに命の危険が迫ります。キリストを抹殺しようとするサタンのたくらみは冷酷を極めました。東方の博士たちから「ユダヤ人の王」が生まれたと聞いたヘロデ王は恐れました。そして律法学者たちに聖書を調べさせ、キリストはベツレヘムで生まれることを知ると、ベツレヘムとその近郊に住む2才以下の男の子を殺せと命令したのです。ヨセフはただちに母子を連れて、エジプトに逃れました。このピンチを、ヨセフは神のみことばに聞き従うことで乗り越えました。そして、ヘロデの死後、ナザレに帰りました。
このナザレで、ヨセフに守られ、イエスは成長なさいました。 (ルカ2章40節)幼子は成長し、強くなり、知恵に満ちていった。神の恵みがその上にあった。
イエスが12歳になられた時、両親はイエスを過ぎ越しの祭りを祝うためにエルサレムに連れて行きました。その帰り道、イエスが巡礼の一行の中にいないことに気付きました。心配で胸が押しつぶされそうになったでしょう。3日間もあちこち探しながらエルサレムに戻ってみると、イエスが神殿の中で学者たちと論じているのを見つけました。学者たちは少年イエスの知恵と知識に驚嘆していました。両親はほっとすると同時に「あなたは何ということをしたの、私たちをこんなに心配させて」とイエスをいさめました。するとイエスは言われました。
「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」(ルカ2章49節)
両親はそのことばの意味が分かりませんでした。イエスが神の子、キリストであることは、最初から分かっていたのに、いつの間にか「我が子」という人間的な思いが大きくなっていたのでしょうか。それも無理からぬことです。しかし、この出来事は強く彼らの心に残り、次第に大きな意味を持つようになります。
イエスが30才になられて、公けに宣教をお始めになった時にはヨセフの姿はもうありません。既に世を去っていたと考えられています。世間から認められることも、ほめられることもなく、貧しい大工として生涯を閉じました。しかし、ヨセフは神から与えられた特別な使命を命がけで果たしたのです。ヨセフの一生は、神の目にも、そしてイエスを信じる私たちの目にも、光り輝いて見えます。