No. 202302
受けるよりも与える方が幸いです
今、世界中の心ある人々がウクライナの状況を悲しく思っています。一日も早く戦争が終わり、多くの命が失われたり、傷ついたり、大切な施設や住居が破壊されることがなくなるよう願っています。
ウクライナは古くから東ヨーロッパに住んでいた民族の一つで、周りの国々による支配に苦しめられて來ました。けれどもそのことによって、かえって多種多様な文化の良いものが残されています。
経済的にはそれほど豊かな国ではありませんが、豊沃な農地のおかげで世界で有数の穀物輸出国であり、日本もその恩恵を受けてきました。
1991年、ソビエト連邦崩壊と共にウクライナは独立を果たしました。
キリスト教は初期の使徒行伝(使徒の働き)の頃パウロによってマケドニア地方に伝えられましたが、そこから離れて東に伝えられていったために孤立して、一般的に東方教会または、正教会と呼ばれています。私たちから見ると聖書のことばを土台とするのではなく、聖画像(イコン)を礼拝して、偶像礼拝のように見えます。しかし、そこにも本当に主を愛する人も大勢いますので、イエス・キリストによる救いの正しい信仰が伝えられることを願っています。
ローマを中心にヨーロッパに広がって行った西方教会とは違い、初期の段階で東方の教会は孤立してしまったため、カトリック教会や宗教改革後のプロテスタントの影響が届いていませんでした。
パウロの伝道旅行はピリピやテサロニケあたりが最北端だったことが知られていますが、パウロが伝えた信仰はそこからさらに北へと伝えられ、ウクライナのある中央ヨーロッパや、東へはアジアへも伝えられていきましたが、互いの交流がなかったため孤立してしまい、私たちの信仰とはかなり違ったものとなってしまったのです。そのために独自の道を歩み、周りの宗教の影響を受けながら、正教会と呼ばれる宗派を形成するようになりました。
けれども、実際には多くのキリスト教と呼ばれている教会でも、聖書を読んだこともなく、聖書を持っていない人々も多いことが知られています。
何年も前ですが、私があるキリスト教の印刷会社の理事を頼まれていた頃、ウクライナ語や中国語の聖書を大型の印刷機で毎日大量に印刷していました。それを世界中の熱心なクリスチャンたちが、聖書のことばを伝えるため中国やウクライナに持ち込んで配布したのです。私もアメリカの宣教師と一緒に中国語の聖書をたくさん持って行き、中国の地下教会に届けたことがありました。
その頃から、ウクライナのことは私の祈りの課題となっていました。
今回、ロシアの侵攻によって、またしてもウクライナの人々は、毎日苦しい日々を過ごしています。一般の人々が住むアパートや学校、病院などが、無差別に爆撃されて、毎日、子どもを含めて大勢の人の命が奪われています。
祈りの家族の皆さんの中にはウクライナの平和のためにお祈りしてくださっている方もたくさんおられます。電気、ガス、水道などが次々と破壊されて、厳しい冬の寒さに耐えているウクライナの人々のためにと、献金を送ってくださった方もおられますので「武器ではなく人道支援のために」という条件で、110万円を日本のウクライナ大使館を通じて送金しました。
家を失い、家族を失い、自分の命さえいつ失うかも知れず、傷つき、苦しんでいる大勢の人々にとっては、ほんのわずかな助けかも知れませんが、愛を込めてその人たちのために手を差し伸べることを主は喜んでくださいます。
パウロはクリスチャンたちに対して「受けるよりも与える方が幸いです」と教えています。(使徒の働き20章18節)
パウロは若い時から旧約聖書を学び、最も厳格なパリサイ派のユダヤ教徒として律法の真理を知っていると思い込んでいました。クリスチャンを迫害することは神の前に正しいと信じていたのです。ところが、クリスチャンを捕らえるためにダマスコに行く途上で復活のイエスに出会って彼の人生は一変しました。イエスの福音の真髄を一瞬のうちに理解したのです。
パウロは旧約聖書の預言のことばに精通しているパリサイ人であり律法学者であり当時としては特権階級であるローマの市民権さえ与えられていました。
しかし、彼はそれらの特権をキリストの故に全て投げ捨てて、少しも惜しいと思いませんでした。パウロはそれをこのように告白しています。
「しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。」(ピリピ3章7、8節)
パウロの生涯は苦難の連続でしたが世界を変えたと言っても過言ではありません。彼の命がけの伝道によって、多くの人々の人生が変わりました。私たちもその恩恵を受けて、主イエスと共に幸いな日々を生きる者とされています。
「私が自分の走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思いません。」(使徒の働き20章24節)
「あなたがた自身が知っているとおり、私の両手は、自分の必要のためにも、ともにいる人たちのためにも働いてきました。このように労苦して、弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです。」(同34・35節)
受けるよりも与えるほうが幸いです。それはイエスの教えであり、イエスの生涯そのものです。イエスはご自分の全てを私たちに与えてくださいました。
パウロもイエスの生き方に習って、生涯を福音のためにささげました。
私たちもイエスご自身とパウロの生き方に習って、本当に助けを必要としている人に手を差し伸べて、分け与えることができれば、本当のイエスの弟子となれるのです。それは何によっても奪われることのない大きな喜びです。