No.202308
だれでも渇いているなら、
わたしのもとに来て飲みなさい。
地球は水の惑星と言われています。水があるところにはいのちがあります。人間の体のほとんどは水でできていると言われています。
聖書は生き物のからだに必要な物質的な水だけでなく、水が象徴する霊的な真理について多く語っています。今日はさらさらと流れる清流をイメージして、ひととき涼んでください。
鹿が谷川の流れを慕いあえぐように神よ、私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。
(詩篇42篇 1、2節)
私たちのたましいの求める水は神ご自身から流れ出ています。エレミヤ書の中で神はご自分を「いのちの水の泉」と呼び(エレミヤ書2章13節)、ダビデは「いのちの泉はあなたにあります」と神をほめたたえています。(詩篇36篇9節)
では、神という水源から流れ出る水とはなんでしょうか。イエスご自身のことばをお聞きください。
さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります」。イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。(ヨハネの福音書7章37-39節)
イエスは仮庵(かりいお)の祭りという祝いに参加するためにエルサレムに行かれました。この祭りはエジプトを脱出したイスラエルの民が40年にわたる荒野の旅をしたことを記念して毎年行われました。木の枝や葉を集めて質素な小屋を造りそのなかで旅の苦労をしのぶと共に神の恵みを思い起こすためです。
荒野で水がなく、照りつける太陽のもとで苦しむ民を神は憐れんで下さいました。モーセが神に命じられたとおりに杖で岩を打つとそこから水が湧き出し、人々の渇きをいやしました。(出エジプト記17章6節)
かつてモーセによって打たれた岩から水がほとばしり出た様子は、私たちの罪のために打たれ、砕かれたイエスのお姿に重なります。そこからいのちの水が湧き出しました。そして今も湧き続けています。
その祭りに集まった人々の前でイエスは声を張り上げて、「渇いている者は私のもとに来て飲みなさい」と言われました。ご自分が神であり、いのちの水の源であることを宣言なさったのです。
イエスはサマリヤの井戸のほとりでも、水を汲みに来た罪ある女に同じことを言われました。
「しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネの福音書4章14節)
その水は聖霊であり、永遠のいのちを与えるものであると、イエスは言われました。しかもその水は飲んだ人の中で泉となりさらに外へと流れ出るものなのです。その人の中だけにとどまってやがて涸れてしまうものではありません。
イエスから流れ出た水は私たちに永遠のいのちを与え、人生を豊かにし、さらに周りの人々にも祝福となって流れていくのです。湧き水が大地を潤おし、穀物や果物を実らせるのと同じです。
これは私たちの力ではなく、聖霊の力によるのです。私たちがひとりで力んでも何もできません。イエスは言われました。
わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。(ヨハネの福音書15章5節)
養分を含んだ水が木から枝に流れこめば、枝は実を付けます。
それでは最後に最も美しい川のほとりに行ってみましょう。
御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてく れた。この川は、神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。(ヨハネの黙示録22章1、2節)
これは使徒ヨハネがパトモス島に流刑となった時に、幻の中で主イエスから示された神の都の風景です。そして主イエスはこう招いてくださっています。
渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。
(ヨハネの黙示録22章17節)
このいのちの水は求める人にただで与えられます。代価はすでに主イエスが支払って下さいました。