祈りの家族への手紙:2023-10

2023年10月 

 親愛なる祈りの家族の皆さま。

 敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい、とイエスは言われました。

 自分に意地悪をしたり苦しめたり迫害する者のために祈ることが出来るでしょうか。特に、自分は正しいことをしていると思っている時はなおさら他人の悪を赦すことが難しくなるものです。相手の方が悪いということが明らかだと感じているからです。そんな時は相手の心の中にある気持ちや事情を理解する余裕はありません。相手にどんな事情がありどんな辛い経験をしてきたかも知りません。ですから、今の段階の自分の理由だけで善悪を判断してしまうのです。

 全てを始めから終わりまで知っておられる主イエスは、私たちが見るようには見ておられません。事が起こる前の事情から、これから後に、その人の上に起こることまでも知っておられるのです。そのまま続いたらどんなに辛いことがその人に起こるか、また、その悪事を赦せないと感じている人自身も、そのままではどんなに惨めな気持ちになってしまうかということまで知っておられるのです。

 その上で、イエスはこう言われました。

 「ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。」

 「さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば自分も赦されます。(ルカの福音書6章35-37節)

 私はイエスのことばを何度も読んでいるうちに、今自分が正しいと思っていることは絶対的な正しさではなく、今の自分の境遇や立場だけで、一方的に判断しているのに気づきました。弱い人や、長い間不当な扱いを受けて傷ついてきた人のやむにやまれぬ行動かも知れないとは思ってもみませんでした。クリスチャンでなかった頃の私は何か悪いことが起ると、私のせいではないと思い、他人に責任をなすりつけていました。それはあまりにも自己中心的で見苦しいことでした。

 クリスチャンになってからは「イエスがそう言われるのだから」と思って相手を恨んだり責めたりしなくなりました。相手を恨んでも責めても、自分がみじめになるだけです。むしろ、相手の気持ちに同情して赦せた時「これで一つイエスの教えに従うことができた」という喜びを感じるようになります。

 私が赦しても相手がそれをどう受け止めるかは分かりません。喜んでくれるとは限りません。それで自分の立場が良くなるという保証もありません。しかし、赦すことで私たちは怒りや苛立ちという負の感情から解放されて、すがすがしい自由を味わえます。イエスの教えには大きな祝福が伴っているのです。

 人間本来の感情からすれば赦すことは確かに難しいことです。しかし主イエスは私たちを赦してくださいました。自分の罪が赦されていることを思い、他の人をも赦すのです。イエスは私たちの罪を神の前に帳消しにしてくださるために、十字架の上で命を差し出してくださいました。私たちをそれほど大切に思ってくださったのです。さばきは全て神にお任せして自分自身の平安を持ち続けようではありませんか。それだけであなたはイエスの教えに従った一歩を踏み出したことになるのです。

 互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。(コロサイ人への手紙3章13節)

 だれかを心から赦すことができたら、あなたも私もイエスの本当の弟子です。今度自分に悪を仕向けられたと感じた時は、この教えを試してみたい気がしませんか。神があなたを愛しておられることが、きっとよく分かるようになります。

 あなたは本当に愛されているからです。

レックス・ハンバード祈りの家族 

桜井剛