祝福のメッセージ
Part II-Correspondence13
No.201409
クリスチャンになった息子と無神論者の父との往復書簡
9.なぜ、聖書の言葉が真実で、それほどの権威があると言えるのか
息子へ、
神の完全性についてのお前の議論は大変興味深かった。ある程度考えさせられる面もあるが、反面、神は人間のような小さな存在を気にかけなければならないほど気の弱い方なのだろうか。
私が気付かないうちに蟻を踏んでしまったとしても、誰も私を責めたりはしない。蟻も、わたしに抗議したりはしないだろう。けれども、蟻たちにとっては大事件だ。同じように、我々には重大なことでも神にとっては、蟻が人に踏まれたことよりももっと小さな一瞬の出来事だ。神はあまりにも偉大で、人は小さな存在なのだから。
しかし、お前の説明に対して、私はもっと大きな疑問を感じる。
クリスチャンたちは、特に、生まれ変わったと主張する人たちは、いつでも聖書に書いてあるから、と言って、彼らの信仰を聖書によって証明しようとしている。だが、聖書にはそのような権威と力があるとどうして言えるのだ。
お前も、「神が私たち人間を愛しておられることは、歴史が裏付けている。」と言って聖書を引用しているではないか。もちろん、イエス・キリストについての知識は全て聖書から来ていることは理解できる。けれども、もともと私は聖書を信じてはいないのだ。おまえのように福音書に書かれている様々な記録とそれにまつわるキリスト教の教えを全て受け入れなければならない理由がどこにあるのだ。
たくさんの愛をこめて、
父より
9.なぜ、聖書の言葉が真実で、それほどの権威があると言えるのか―に答えて
親愛なるお父さん。
先ずは蟻についての議論から始めましょうか。その後で、聖書について述べます。
お父さんは、人が蟻に対して責任を感じないように、神も小さな存在である人間に対してはそれほどの関心などないはずだと言われましたが、それは違います。
確かに人間が全ての虫たちに心を配ることは不可能です。けれども、それは人間が神のように完全ではないからです。もし、私たちが完全な愛と能力を持っていたら、彼らのことをもっとよく知り、気を配ることも出来たでしょう。そればかりか、人間どうしも、お互いのことをもっと思いやることが出来るに違いありません。自分以外のものへの愛や思いやりの足りなさゆえに、自分の利益のために他の生物や自然体系に害を与える開発を進めた結果、自分たちの住む地球全体に悪い影響を与える結果となっているのです。
神は全知全能で完全な方です。ですから、私たちが動物や自然を扱うのとは違い、私たちの全てを何もかも知ったうえで、蟻のごとき取るに足りない私たちをも心にとめて愛してくださっているのです。
では、お父さんの言われる聖書(特に福音書)の本質的な議論に移ります。
イエスに関する教えは全て聖書からであることは確かです。しかし、聖書には歴史的な事実の裏付けがあります。根拠もなく鵜吞みにしているわけではありません。
確かに、イエスについての知識はほとんどが福音書から来ています。けれども、私は、あらゆる観点から検討した結果、歴史的にその記述が正しいことが分かっている故にそれを信じ、学生たちにもそう教えることが出来るのです。
福音書は、イエス・キリストについて実際に見聞きした人々にる歴史的な記録として残されたものです。それを記録した人々は必ずしも、歴史学者や科学者たちではありませんでした。それ故、記録の中には、重複や時間経過のずれがあると言われる個所がありますが、それは目撃者による直接の記録によるためであって、作り話ではない証拠です。多くの歴史的な記録を吟味するのと同じ手法で検討された結果、歴史的な出来事として認められ、伝えられてきたのです。
通常、歴史的資料の検討は、内面的批評と外面的批評とに分けて行なわれます。
福音書の内面的批評の主だった評価の仕方は、記録者がどれほどその歴史的出来事を知り得る立場にあったか。論点とは関係のない事実が一緒に記録されているか。(他の出来事や不利になり得る事実もそのまま具体的に記録されているべきである)
記録に一貫性があるか。事実の記録に古来の伝統的手法が用いられてはいないか。(作り話はそのような手法をよく使う)などの検討がなされます。福音書の記録はその全ての点において、歴史的に価値のある真実な記録として評価されています。
外面的批評とは、記録者に作り話をする意図的な理由が見られないか。何らかの利益がからんではいないか。その記録の真実性を裏付ける資料が他に存在するか。考古学的事実と一致するか。後の時代になって福音書の記述を否定する議論が数々起こりますが、ほとんどの場合、何らかの利己的な目的を持って議論されています。これらの批評にも福音書は全てにおいて良い結果を得ています。
最後に具体的な例をあげると、ルカの記録もヨハネの記述も、出来事を主観的に編纂することなくありのままに記録し、集めた資料をそのまま記録に残しています。
たとえば、ヨハネ20章1-8節のイエスの復活の記録です。週の初めの朝早く、まだ暗いうちに、とありますが、それは復活を論じることには関係のない事実です。作り話ならそのような記録は残しません。事実でないことは、後で厳密に調べれば分かります。他にも、ペテロが先に墓に向かって走り、ヨハネが追い越して先に墓に着いて、かがんで中をのぞいた、とありますが、当時の墓の形状を証明するそのような記録も、当事者でなければ書けない事実です。
その他の多くのことを総合した結果、福音書が歴史的な事実の記録として価値のある資料として認められています。その内容が、神の愛とそのご計画とを知らせるものである故に、人々はそれを「神からの語りかけ」「神のことば」と信じるようになったのです。そういう意味で、私も聖書が神のことばであると信じています。
もっとたくさんの愛をこめて、
グレッグより