祝福のメッセージ
福音書にあらわされたキリスト
No.201311
十字架への道㉑ 十字架上のイエスのことば
「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」と言った。「これはユダヤ人の王。」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。
十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23章33-43節)
イエスの一行はついに刑場に到着しました。そこは小高い丘でいかにも刑場らしくゴルゴタ(されこうべの場所)と呼ばれ、どくろの形をしていました。イエスは二人の罪人と共に十字架にかけられました。
イエスが十字架上で語られた最初のことばは「父よ。彼らをお赦しください。」でした。そう祈られたのはイエスをしたって従って来た人々や弟子たちのためだけではありません。ご自分を十字架に釘付けている兵士たちのためにも、またイエスを死刑にするように企んだユダヤ人の指導者たちのためにも、そう祈られたのです。
ところが人々は何も分かっていませんでした。そして口々に「キリストならまず自分を救ってみろ」とか「ユダヤ人の王なら自分を救え」と嘲っていました。神の子、イエス・キリストにその力がなかったわけではありません。けれどももし、イエスがご自分を救うために十字架から降りてしまわれたら、彼らの罪も私たちの罪も赦されることはなく、永遠に滅びるしかなかったことでしょう。彼らは自分たちのしていることが何もわかっていなかったのです。
ところが、一緒に十字架にかけられていた一人の囚人が言いました。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」人類を罪から救う神のご計画を彼がどれほど理解していたのかは分かりません。けれども、少なくとも、イエスがご自分の罪のために刑を受けているのではないことは分かっていたようです。
イエスが十字架上で語られた2番目のことばはこれです。「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
何という大きな慰めでしょう。イエスが十字架でいのちを投げ出されたのと同じ日に彼は十字架刑を執行されて死にますが、その日にはもうイエスと共にパラダイスにいるというのです。イエスが十字架への道を歩み抜かれたので私たちもイエスと共に永遠に生きることが可能になったのです。
さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。すると、それを聞いて、そこに立っていた人々のうち、ある人たちは、「この人はエリヤを呼んでいる。」と言った。また、彼らのひとりがすぐ走って行って、海綿を取り、それに酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。ほかの者たちは、「私たちはエリヤが助けに来るかどうか見ることとしよう。」と言った。そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。(マタイ27章 45-50節)
イエスが十字架上で語られた3番目のことばは「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」でした。イエスは私たちの全ての罪のために神との関係を断たれ、見捨てられなければならなかったのです。罪は神との関係を断絶するほどの重大なものだからです。神と共におられ、神と一つであられたイエスが神から見捨てられる苦しみは、何度も鞭で打たれ、背中の肉が裂けて飛び散った時の痛みや十字架に釘づけにされた両手が、呼吸をするたびに激痛にみまわれる肉体的な苦しみとは比較にならないものだったに違いありません。
イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。とありますが、その大声で叫ばれたことばは何だったのでしょう。それはルカの福音書23章にあります。
イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった。」と言った。また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、こういういろいろの出来事を見たので、胸をたたいて悲しみながら帰った。(ルカ23章46-48節)
イエスが十字架上で語られた最期のことばがヨハネ19章に記録されています。
イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。
この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。
(ヨハネ19章26-30節)
イエスは最後までご自分の母親マリヤに心をかけて弟子の一人に託されました。全世界の人々を救う使命をもって十字架の上で今まさに命を投げ出そうとしておられる瞬間にも、身近な者への思いやりを決しておろそかにはなさいませんでした。その上で、旧約聖書に予言されていることを全て完成なさったのです。
特に、詩篇22篇の1節と15節を見ると、イエスが十字架の上で語られたことばがそのとおりにそこに書かれていることが分かります。
こうして、イエス・キリストによる十字架への道は完了したのです。