2025年6月
親愛なる祈りの家族の皆さま。
神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネの福音書3章16節)
神はその独り子さえ惜しまず、私たちに与えてくださいました。与えることは神のご性格なのです。神に造られた私たちは当然、神のご性格を受けついでいます。与えることは神の遺伝子だということが出来ます。
娘が幼かった頃、よく私の膝に座ってお気に入りの海老せんべいを食べました。一つ自分の口に入れると、次は私の口に、「パパ、あーん」と言って入れてくれるのです。「私がおいしい」と言って食べてみせるととてもうれしそうでした。こうして子供は与える喜びを知るのです。皆さんもそんな想い出がおありでしょう。
動物の世界でも与えることは大きな役割を果たしています。彼らは人間のように愛という感情に動かされてそうしていると言うよりは、本能的にそうしないではいられないように見えます。燕の子育てを観察したことがおありでしょうか。食べ盛りのひなのためにせっせと餌を運んだり、糞を取って捨てたり、かいがいしく世話をしています。自分のためにしているのではありません。何の見返りも求めず、次の世代のためにひたすら身を捧げているのです。動物の中には自分の命さえ犠牲にするものもいます。こんなに苦労の多い仕事を彼らは嬉々としてやっているのです。その喜びの源は何なのでしょうか。それは彼らを創造なさった神のご性質から来ているに違いありません。
命を与えられて生きていることの喜びと感謝のしるしとして、精一杯力を尽しているのです。
まして人間はなおさらです。与える喜びは、あなたや私の中に、しっかりと根をおろしています。
聖書の中でパウロはイエスの言われたことばを引用してこう言っています。主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。(使徒の働き20章35節)
パウロは名誉ある地位も財産も全てを捧げて、福音を伝えることに専念しました。最後には自分の命さえ、イエスのためには、惜しみませんでした。
私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。(テモテ第二の手紙4章6-8節)
パウロは死を前にして、喜びに溢れていました。全てを与え切った人にのみおとずれる喜びでした。
与える喜び、与えることが出来た時の感激、それは常識や計算では説明のできないものです。与えるという神のご性格が、私たちの心にも自然界にも秘められているからです。
だからこそ皆さんの尊い献金によって「明日への希望」のテレビ放映も、祈りの家族の働きも、続けることが出来たのです。それによって多くの人がイエス・キリストを知るようになりました。
それだけではなく、災害に会われた地方の方々や、困難の中で福音を伝えている方々の働きを支援することも、インドの孤児たちの教育を支援することもできたのです。それは、皆さんのおかげです。皆さんもそれを大いに喜んでください。
私は今、3週間毎に抗がん剤の治療を受けていて、病気も少しづつですが進行しています。体力も弱ってきました。それでもこうして皆さんと共に主イエスにお仕えすることが出来て本当に幸せです。主が私に命を与えてくださっている限り、あれもしよう、これもしようと、思いは尽きません。
「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」(ヤコブ手紙4章15節)
皆さんからの祈りのリクエストを受け取るたびに、まだそのために祈り、励ますことが出来ると感じ、喜びが湧いてきます。皆さんにも、これまで生かされてきたことを感謝して、最後まで喜びに溢れた人生を、生きていただきたいのです。
悩みをかかえている人々、困難の中にある人々のために、心を一つにして祈り、みことばを通して励まし、助けの手を差し伸べたいのです。
それこそ、十字架の上でご自分の命によって、私たちの罪を贖い、神のこどもとして下さったイエス・キリストを信じる者にふさわしい生き方です。ここに何物にも代えられない大きな喜びがあるのです。
神の愛を、言葉と行ないを通して、周りの人々に伝えましょう。
すでにそれを実行しておられる方々を、私は何人も知っています。その結果だけを期待しているのではありません。それをしたこと、それが出来たことの喜びを、ご一緒に体験したいのです。その恵みと報酬は、目に見えなくても、私たちが気付かないうちに、神から豊かにやって来て、あなたは永遠の喜びに溢れることでしょう。そういう生涯を、祈りの家族の皆さんとご一緒に、最後まで続けたいと願っています。
満員電車の中で、大きな荷物を持って立っていた老人に、礼儀正しく席を譲り、荷物を棚に上げてくれた青年を見ていたご婦人たちの一人が「あの人クリスチャンかしら」と言うのが聞こえたとき、とてもうれしくなりました。私もそんなふうにどんな時にも、神の愛を惜しみなく人々に分け与え、周りの人々と共にその喜びを日々体験するクリスチャンでありたいと思っています。
私たちは神に愛されているからです。
レックス・ハンバード祈りの家族
桜井剛