親愛なる祈りの家族の皆様。
8月は終戦の月です。戦争の愚かさと空しさを噛み締めて、平和を願う心が日本中にみなぎっています。愚かな戦争によって大勢の尊い命が奪われ、生き残った人々の心と体にはぬぐいきれない傷を残したからです。テレビの報道の中でも人々は口々に、二度と戦争をしてはいけない、平和が大切だ、と言っています。特に若い人たちがそう言ってくれるのをとても頼もしく思います。
多くの人々の尊い命を「戦争に勝つため」という理由で無残な死に追いやった悪政を、誰もが憎んでいます。あんなことは二度と繰り返してはいけないと思っています。その心はとても尊いと思います。けれども、それだけで平和が保証されるのでしょうか。あらゆる状況の中でも平和を第一とすることはそれほど簡単なことではありません。なぜなら、全ての人は罪という本質的な問題を持っているからです。
力によって相手を屈服させて自分の主張を通すことは、正しいことではなく、良い結果をもたらさないことは誰もが知っています。けれども、人類は未だに戦争をやめることができません。そればかりか、国々はますます軍備を増強し、想定できるあらゆる戦いに有利な備えをしようと懸命になっています。その備えこそが敵を作っているのです。戦争と戦争の噂が世界中に満ちています。
そういう中だからこそ「始めから戦争を問題解決の手段とはしない。それ故に戦争のための武力をいっさい持たない」という国があってもいいのではないかと思います。
争いは国と国だけの問題ではありません。私たち一人ひとりの日常生活にも深い関係があります。家庭でも、学校や職場においても起こります。あなたの周りでも、しばしば見られる問題ではないでしょうか。対立や争いによって、一番傷つくのは自分自身です。多くの人がそのような状況に巻き込まれて苦しんでいるのを知るたびに私の心は痛みます。もうそれ以上心の傷を受けないでください。平和を求めてください。相手を思いやり、互に譲り合い赦し合う寛容さを求めてください。そうすれば、敵がいなくなりどんな争いも避けられます。たとえ意見が一致しなくても、意地を張らずに何が一番大切で価値のあることかを冷静に判断するなら、争う必要はないことが分かります。
互に赦し合い愛し合いなさいという聖書の教えはどんな状況にも活用できる有効な手段です。けれども、多くの人がそれを選ぶことをしません。半ば衝動的に相手の誤りを指摘し、同時に自分の正しさを主張せずにはいられないのです。相手もそれなりに対抗をしなければならなくなります。そして、ますます攻撃的になり、非難すべき点を探し合い、自分の正しさを主張し合い、対立はますます大きくなります。そういう時には、誰でも自分は正しく相手が間違っていると思うものです。自分には正当な理由があり、相手の事情は分からないか、分かろうとしないからです。まして、対立関係にある相手の弱さを思いやったり同情したりはしません。それは私たちの内にある罪の力のなせる業です。そういう流れを一度とめて、イエスを見上げてください。人と人との平和はイエスの助けを求めて積極的に作り出さなければ自然にはやって来ません。常に自分の利益だけを第一に求める人間の罪深さは、平和を実行しようとする心とは逆向きに働くものだからです。
公平で完全な裁きは神だけにしかできません。欠点のない完璧な人など一人もいないからです。
イエスは平和の君と呼ばれました。対立と争いで混乱した世界に平和をもたらすために来られた方だからです。けれども、イエスは世界平和よりも先に、私たちの心に平和をくださいました。
わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。(ヨハネ14章27節)
私たちの心に平和がなければ、世界の平和はありません。罪が取り除かれ、神との間に平和がなければ、私たちの心に平和は訪れません。イエスは平和をつくる仕事を先ず私たちから始められたのです。
家庭の中に問題がありますか。学校や職場の中の問題で苦しんでおられますか。それはあなただけの問題ではないのかもしれませんが、あなたから解決できるのです。イエスはそれを助けてくださいます。相手が変わらなくても、自分が変わればいいのです。そうすれば周りも変わってきます。
イエスを平和の君として心に受け入れて、罪を赦され、神との間に平和を得てください。そこから世界の平和は始まるのです。神の力による世界平和はあなたや私から始まるのです。
イエスは「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5章44節)と言われました。
初代教会の信者たちはその教えを実行していました。敵をも愛し、迫害するもののために祈り、大勢の人々が争うよりもむしろ殉教の死を選びました。それによって、多くの人々の心が動かされ、福音が世界中に広がっていったことは歴史が証明しています。
進んで殉教の死を遂げることは私にはできないかも知れません。それには聖霊の助けが必要です。けれども、相手を非難せず、争わず、敵対する相手のことを少しだけ思いやることなら誰にでもできます。あなたの周りからも、それを始めることができます。
あなたが敵だと思っている人にも、悲しいことや苦しいことがあるに違いありません。それがわかれば、あなたの気持ちも変わることでしょう。その人と仲良くなれるかも知れません。その人の事情が分かり、同情し、愛することが出来るようになるための出発点になります。
私は、対立し憎み合っていた相手がなくてはならない生涯の友となったという例をたくさん知っています。それはあなたの周りでもきっと起こります。
神はあなたを愛しておられます。そして、あなたが敵だと感じている人をも愛しておられます。
たとえその人が、あなたの目から見て欠点だらけの悪い人だったとしても、イエス・キリストはその人を罪から救うためにも、十字架でいのちを投げだしてくださいました。全ての人を創造なさり、一人ひとりの心の中をも全てご存じである神は、あなたを愛するのと同じように、その人をも切に愛しておられるからです。
あなたは愛されています。
レックス・ハンバード祈りの家族
桜井 剛