親愛なる祈りの家族の皆様。
早いもので、今年もクリスマスのシーズンとなりました。クリスマスまでの4週間はアドベントとも呼ばれ、重要人物や出来事を待ち望むことを表わしています。神の約束を信じていた人々は救い主の誕生を切なる思いで待ち望んでいました。では現代の人々は何を待ち望んでいるのでしょう。
豊かな生活でしょうか。健康で長生きすることでしょうか。才能を認められて称賛されることでしょうか。誰もがうらやむステージに立つことでしょうか。何事もない平穏な人生でしょうか。
待ち望むことは期待することです。だれでも、友だちや大切なお客様を招待して待つときには、入念な準備をします。その準備の仕方によって、招かれた客人の大切さと関係とが分かります。
2020年の東京オリンピックのために日本中が莫大な費用と労力をかけて準備をしています。4年に一度のスポーツの祭典に大きな期待をしてそれにふさわしい準備をしているのです。
けれども、神が人となってこの世に誕生なさるという、人類の歴史に一度しかないできごとが、何世紀も前から、幾度となく予告されていたにもかかわらず、当時の人々はどれほどの備えをしてイエス・キリストをお迎えしたでしょうか。
荒野で叫ぶ者の声がする。『 主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。すべての谷はうずめられ、すべての山と丘とは低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる。』(ルカの福音書3章4-6節)
けれども、実際に神の子の誕生をお迎えしたのは、名も知られていなかった外国の博士たちと貧しい羊飼たち、そして、わずかな信仰深い人たちだけでした。
それは、人類の不信仰を象徴するものです。それだからこそ、全宇宙の創造者であり、すべてを御手のうちに治めておられる神ご自身が、へりくだって人と同じ姿になって私たちの中に住んでくださる必要があったのです。そして、人々の非礼がその出来事をしっかりと意味づけているのです。
もし、この方が大きな宮殿の中で高貴な方として生まれて大切に育てられたとしたら、どうして、私たちの悩みや苦しみを理解し、痛みや恐れを知ってくださることが出来るでしょうか。
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ書53章3―5節)
それから2000年以上の年が過ぎました。世界中でクリスマスのお祝いが行なわれていますが、人類の救い主である、神のひとり子イエス・キリストが私たちのためにこの世界に来てくださったことをどれほどの人が自覚し、感謝してお祝いしているでしょうか。
イエスが私たちの病と苦しみを負ってくださっていることをどれだけ実感しているでしょうか。私たちが日々体験する病や痛みを主がともに負ってくださることに気が付いているでしょうか。全人類を罪の中から救うために大きな犠牲を払ってくださった神の愛は私のためでもあったのです。
今、病気で苦しんでいる方がおられますか。どうか祈りのリクエストを書いてお送りください。ご一緒に祈りましょう。イエス・キリストにその痛みと苦しみを負っていただきましょう。
今、経済的な心配や将来への不安を感じておられますか。イエス・キリストに全てをお任せして祈り、心配するのをやめて、自分に出来ることだけを精いっぱい行ないましょう。
悪を行なう人々に心を乱されて、人を批判したり裁いたりするのをやめて、全てを神の手にお任せしましょう。平安を与えるために来てくださったイエスに不安や恐れを全てお渡ししましょう。
そのためにこそイエス・キリストはこの世に来てくださいました。私たちを思う愛の神が人の姿で現われてくださったのです。そのイエス・キリストに表された神の愛を心に迎え入れることが本当のクリスマスです。
神の救いのご計画を悟ることは、どんな大発見よりもはるかに重大な意味をあなたの人生に与えてくれます。あなたの人生を大きく変える方としてイエス・キリストを心にお迎えしましょう。
もっと早くそのことに気が付けばよかったと思いませんか。そうすれば、心を備え大いに期待をして本当のクリスマスを待ち望み、感謝して救い主の降誕をお迎えすることが出来たからです。
けれどもチャンスはもう一度やって来ます。主はもう一度来られるからです。こんどこそ私たちは再臨の主を周到な準備をして待ち望むことによって私たちの期待を表わそうではありませんか。
「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒の働き1章11節)
待ち望むことはただ立ち止まって、天を見上げて待っているだけではありません。
主が自分にとってはどのような方なのかをもう一度考えてみましょう。祈ったとき主がどのようにそれに答えてくださったか、窮地におちいったとき慰めと知恵を与えて、どのように励まし助けてくださったかを思い起してください。主は今も私たちを生かし、たくさんの恵みを注いでくださることに感謝しましょう。主は私たちの人生にとってなくてはならない大切な方です。祈りのリクエストに答えてくださるよう祈る時、主はあなたに何を願っておられるかを考えてみましょう。
今の世界情勢を見るとき、心配事でいっぱいです。仕事がない若者たち、介護につかれて自殺に追い込まれてしまう家族、社会に失望してテロ組織に誘われていく若者たち。私たちに何が出来るのでしょう。神は私たちに何を願っておられるのでしょう。
どのように困難な境遇の中におかれていても、神を信じて、全てを主にお任せする平安と喜びの中でイエス・キリストの再臨を待ち望む姿を世界中に示そうではありませんか。
私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。(テモテの第二の手紙4章6-8節)
主を待ち望むあなたの上に何にも代えられない喜びと平安が溢れるまでに注がれますように。
あなたは愛されています。
レックス・ハンバード祈りの家族
桜井 剛