祈りの家族への手紙:2014-11

 月日の流れは本当に速いものですね。今年も、もうすぐクリスマスが来ようとしています。
 2014年の始まりの頃には、今年こそ、家族の一員や親しい友人がイエス・キリストを信じるようになってほしい、と祈りながら、その人のためにも、クリスチャンとしての手本となれるよう願いつつ日々を過ごしてこられた方も大勢おられることでしょう。祈りの家族の皆さんの中には、その祈りが聞かれようとしている方が何人かおられます。家族の一員が教会に行き始めたという報告もあります。友人が信仰に興味を持ち始めたと知らせてくださった方もおられます。長年の祈りが成就しようとしているのです。

 けれども、中には何年祈っても福音に耳をかたむけようともしてくれない場合もあります。長年苦しんできた病気の癒しを願って祈り続けておられる方もあります。経済的な苦難から抜け出せないでいる方もおられます。どんなにか辛い日々でしょう。答えられる祈りと答えられない祈りとはどこが違うのでしょう。祈りに違いがあるのではありません。

 私たちは祈るとき、祈りの結果だけに注目しがちです。健康な体、経済的な祝福、快い人間関係、それらはみな結果であって、神が私たちに与えようとしておられる祝福の中心ではありません。

 イエスはお腹を空かした大勢の群衆をわずかのパンと魚で十分に満たしてくださいました。飢えていた群衆にはとても大きな助けでした。それを知った群衆はますます大きく膨れ上がって大勢の人々がイエスのもとに集まって来ました。イエスはまたパンと魚をお与えになったのでしょうか。

 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。」(ヨハネ6章26、27節)

 イエスはパンの奇跡を「しるし」と言われ、パンそのものとは区別なさいました。パンの奇跡はイエスが本当に与えようとしておられるものを指し示すための「しるし」だったのです。イエスが私たちに与えようとしておられる本当の食物とは、食べてしまえばなくなるものとは違うのです。一度飲んでもまた渇く水とも違います。与えられても使ってしまえばなくなる富でもありません。癒されても、やがてまた年老いて死を迎えなければならない肉体の健康とも違います。それらは良いものではありますが、永遠のいのちに至る道へと導く入口の「しるし」にすぎません。イエスが本当に与えたいのは決して尽きることのないものであり、「しるし」として行なわれた良いわざとは比較にならないほど素晴らしいものです。イエスはそれを求めなさいと言われました。

 イエスが行なわれた奇跡はいつも永遠のいのちへの道を指し示しています。繰り返し行なわれた病人の癒しも、悪霊につかれた人を直したことも、足なえを立たせ、盲人を見えるようになさったことも、神の栄光を現わすためでした。神がイエス・キリストによって行なおうとしておられる救いのわざに私たちの目を向けさせ、そこに至る道へと導くためです。

 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。(ヨハネ9章1-3節)

 ラザロの復活の奇跡のときは、イエスを信じる者には永遠の死はないことを教えられました。

 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ヨハネ11章25、26節)

 あなたが困難に直面して祈るときには、イエスが私たちに与えようとしておられる素晴らしいものがそこには用意されていることを心にとめてください。あなたが求めるもの以上のもがそこに準備されているのです。そして、イエスはこう言われます。

 「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」

 祈りは神と私たちとの共同作業です。神は決して私たちの助けを必要としておられるわけではありません。けれども、私たちにその働きの一端を担う特権を与えてくださっているのです。ひとりの人が滅びから永遠のいのちに移されることはとてつもなく大きな出来事です。しかも、その人があなたの大切な人だったらなおさらです。その大事業の一端を担うことが出来るとしたらどんなに大きな喜びとなることでしょう。神はその喜びをひとりじめにはなさらないのです。あなたにもその喜びを味わってほしいと願っておられるからです。祈りは神とあなたとの共同作業の始まりです。

 私も、母が救われるようにと7年間祈りました。ですから、母がイエス・キリストを信じて洗礼を受けた時の喜びはとても大きなものでした。主は私にその喜びを味わう特権を分けてくださったからです。

 祈ったら、その祈りの完成のために役立つ何かを実践してください。どんなに小さなことでもいいのです。役に立てることは何もないと思わないでください。もともと、私たちに出来ることなどたいしたことではありません。完成してくださるのは神です。しかも、その小さな行ないも、結果としてあなた自身の品性を高めることに大いに役立つのです。それによってあなたの人生そのものがすばらしく変えられるのです。それが、神が私たちに願っておられる第一のことかも知れません。神の愛とご計画の高さ広さ深さには計り知れないものがあります。

 そこで、今年もまだ救われていない、愛する人々の名前を書いてお送りください。その方のためにあなたとご一緒に祈ります。そして、その人が救われるために、祈りに加えて何か一つでもその方の救いにプラスになることを実践してください。たとえば、聖書の言葉を書いて送るとか、クリスマスには教会のクリスマス会に誘って一緒に行くとか、いつもより優しい言葉で接するよう心がけるだけでもいいのです。何か一つでもあなたの決意が伴うことを実践するのです。

 そうすれば、あなたの祈りのリクエストは、あなたが願っておられること以上に、イエスがあなたに与えたいと願っておられるもっと素晴らしいことへとあなたを導いてくれるに違いありません。

 あなたは愛されています。

レックス・ハンバード祈りの家族 

桜井 剛