No.200104
復活のイエス
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ2章6-11節)
イースターはイエス・キリストの復活を記念する日
イースターはクリスマスとならんで、イエス・キリストが私たち人類にとっていかに大切な方かを心にとめる大切な時です。
罪が人類と神とを引き離してしまった
人は罪のゆえに神との交わりができなくなっています。神が私たちを嫌っておられるのではありません。私たちの罪が邪魔をして神を見ることも近づくこともできなくなっているのです。
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。(ローマ3章23、24節)
イエス・キリストはその罪を取り除くために死なれた
イエス・キリストがこの世に来られたのは、人類の罪をご自分のものとして引き受けるためでした。しかも、人となって地上に生まれ、罪のない完全な生涯を生き、しかも、罪人として罪の代価である罰をご自分で受ける必要がありました。それが十字架の死です。
罪が全くない方が、私たちの罪をご自分のものとして受け止めてそれを負い、十字架の上でその罪の代価として死なれたのです。
血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。(ヘブル9章22節)
死は終わりではなくなった
しかし、イエス・キリストは死を打ち破って復活なさいました。これはイエスが単に偉大な人物というだけではないことを証明しています。
さらに、罪が消されただけではなく、それに続くいのちがあることを約束しているのです。
イエス・キリストは人となられた神の子です。人であると同時に神です。神が死につながれたままということはありえません。死という罪の結果を打ち破るために死なれ、死が征服されたことの証拠として復活したのです。
しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。(使徒2章24節)
人となられた神の子は再び高く引き上げられた
イエス・キリストは復活しただけでなく、高い地位に引き上げられたと書かれています。神の子であるにもかかわらず、人となって神の救いの計画に従順に従い、十字架の死によって人類の罪のあがないを完成なさったからです。
復活はイエスが神であることを証明する
神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。とありますが、キリストはもともと神と共におられ、神と等しい方だったのです。
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。(ヨハネ1章1節)
もし、復活し、天に帰り、神の座に戻られるのなら、なぜ、わざわざ地に下られたのでしょうか。ここが大切な点です。
イエス・キリストが世にこられた目的
神の子が人となって私たちの間に住み、完全に神に従い、罪のない生涯を歩み、十字架の死と復活を通して再び神の栄光の座につかれたのです。これによって、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白するのです。
私たちにとって身近な方であるイエスが、神としてあがめられるべき方であることがはっきりとしたのです。神が私たちにとって恐るべき偉大な方であると同時に身近なやさしい方としてあがめられるようになったのです。神と人とを再び結ぶことが世に来られた目的です。
救いは完成し、今は恵みの時
クリスマスとイースターの間に、すなわち、神の座を離れ、地に下り、十字架で死に、復活して天に帰るまでの地上の生涯において、イエスは人類の歴史の上で最も重要なことを完成なさいました。それは、神から離れて永遠に滅びるべき人類が、その永遠の滅びから救い出されて、神と共に永遠に生きるものにされるという神の救いの計画を成し遂げることでした。
救いの道は完成しました。今私たちは永遠のいのちに向かって進んでいるのです。誰でもイエスによって完成された救いの道を無代価で受け取って、永遠のいのちを持つことが出来ます。だから、今は「恵みの時、救いの日」なのです。