No.202203
あすのための心配は無用です。
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。(マタイの福音書6章33、34節)
「明日のための心配は無用です」とイエスは言われました。ですから、心配しなくてもいいのです。私たちのあしたは神の御手の中にあるからです。
ではあなたはどんな時に心配しますか。
心配の仕方には2種類あります。英語ではworry と訳されていて、心配のあまり、うろたえている状態を表しています。何の手立てもなく、ただ心を騒がせているだけです。ですから、問題の解決も、それに対する心構えもありません。こんな心配は私たちの肉体も魂も弱らせるだけです。
もう一つは、concernと訳されますが、このことばは、心配の対象となっている事柄に対して冷静に目をむけて、解決への道を探ろうとする気持ちを表わしています。これはとても前向きな姿勢です。
イエスが「心配は無用です」と言われるのは、前者のような心配の仕方をしてはいけないという意味です。ただおろおろと心配しているだけでは道は開かれません。
イエスのことばを聞くために大勢の群衆が集まって来ました。イエスの教えは当時の学者や教師たちの教えとは全く違って、聞く人々を感動させました。その時語られたイエスのことばは「山上の垂訓」と呼ばれています。
今回のことばもその教えの中の一つですが、もう一度深く味わってみましょう。特に、多くの心配事をかかえている今の時代だからこそ、このことばの真の意味を正しく知っておきましょう。
「まず神の国とその義を求めなさい」とイエスは言われました。そうすれば神が私たちの人生に必要なものを全て与えてくださるからです。それなら何も心配することはないではありませんか。心配はいらないと気休めに言っているのではありません。心配しなくてもいい理由がはっきりとしています。
あなたは今どんなことで心配しておられますか。自分の身の回りでも、また世界でも、心配の種は尽きません。それに対する私たちの反応はどちらでしょうか。無益な心配でしょうか。それとも愛から出る心遣いでしょうか。
たとえ愛から出た心遣いだとしても私たちの力ですべて解決できるわけではありません。そこでヤコブはこのように言っています。
「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい」(ヤコブの手紙5章13節)
私たちは心配事を神に差し出して祈り、全ての喜ばしいことのためには、恵みに溢れる神に感謝し、神をほめたたえるのです。ここには自分の力で何とかしなければという力みはありません。神を信頼しきって自然体で生きています。そうすれば、あすもまた希望を持って生きていけるのです。
「私のこの心配事を、このように取り除いて決着をつけてください」と神に指図するのは、本当の祈りではありません。全てを神にお任せして「今、私はこの問題で困っています。全てあなたにお任しますから、あなたの方法でお助けください」と、祈るのです。そして、祈ったらもう心配しないで、そのことは忘れて安心していましょう。ヤコブはさらにこう続けています。
あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。(5章14節)
心配する代わりに、その事柄に対して正しい行動を取ることをヤコブは勧めています。「教会の長老たちに祈ってもらいなさい」と言っていますが、長老でなくても、信頼できるクリスチャンなら誰でもいいのです。まず祈ってもらうことです。病気や健康の問題で苦しんでいる方はたくさんおられます。
一人では心細くても、共に祈ってくれる人がいます。神は心を合わせた祈りを重んじてその祈りに答えてくださいます。
どのような状況の中でも、神は一番適切なことを行なってくださいます。それを知っていれば何も心配する必要がなくなります。
どうか、思いわずらうだけの心配はしないでください。冷静にその心配事に目を向けて、祈りのリクエストを書いてお送りください。そして、祈った後は、全てを神にお任せして、その問題はすでに解決したものと信じて行動しましょう。私たちの思いをはるかに超えた方法で、神は私たちの祈りに答えて、ご自分が全能の神であることを示してくださいます。
全能の神が私たちの味方であり、私たちを心にかけてくださるのですからもう何もくよくよ悩むことはありません。
あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(ペテロ第一の手紙5章7節)
このみことばを体験するたびにあなたは強くなり、心配している人のために祈り、励まし、助けることが出来る人になれるのです。