2025年5月
親愛なる祈りの家族の皆さま。
すがすがしい良い季節が巡ってまいりました。神の恵みに感謝して、この季節を大いに喜び、満喫しましょう。
それでも、人生の旅路には誰でもしばしば浮き沈みを経験します。もしかしたら「たった今、そのただ中にある」という方もおられるかも知れません。
クリスチャンだからと言っても、私たちの人生が晴れの日ばかりを約束されているわけではありません。曇りや雨の日もあれば、でこぼこの山道を歩くこともあります。けれどもそれを、私たちを苦しめる禍いとだけ捕らえてはなりません。私たちがどんな道を歩こうとも、また、どのような日を迎えようとも神がいつでも私たちのそばにいてくださり、共に歩いてくださるからです。
イエスが復活なさった日のエピソードが私の心に語りかけています。二人の弟子が、エルサレムからエマオに向かって歩いていました。イエスがよみがえられたというニュースは彼らの耳にも届いていましたが、彼らには信じがたい噂に思われ、悲しみにくれていました。そこへ主イエスが近寄って、声をお掛けになりました。しかし彼らは霊の目が閉ざされていてイエスだとは分かりませんでした。
イエスが食卓に着き祝福の祈りをなさった時、彼らははっとして、それがイエスであることを悟りました。するとイエスの姿は見えなくなりましたが、彼らは喜びに溢れました。「道々お話しになった時私たちの心は燃えたではないか。」(ルカによる福音書24章13節-32節)
イエスは今も私たちと共に歩み、語りかけておられます。しかし、私たちは世の中の雑音や日々の忙しさのために、しばしばイエスの声が聞こえないのです。もしそうなら、私たちは最も素晴らしい瞬間を逃しているのです。心して主のみ声を聴き、主と語りあいましょう。そうすれば、主は必要な時には助けの手を差し伸べて支えてくださいます。雨の日にも心には賛美の歌があり、険しい山道を歩くような時にも倒れることはありません。神の子供となった私たちには、私たちのことをいつも気遣い、見守ってくださっている方がおられますから、何があろうとも安心して人生を生き抜くことが出来るのです。
歩き始めたばかりの幼子が、何も恐れないで、どんどん歩いていくのに似ています。歩くことが嬉しくてたまらないのです。それに、何か危ないことがあれば、いつでも親が手を伸ばして、助けてくれることを知っているからです。私たちも、そんなクリスチャンであっていいのです。
大切なことは、いつも祈りを通して、神と心がつながっていることです。神は私たちが祈った時だけでなく、いつでも私たちを見てくださっています。祈ることは私たちが心を神に向けることです。問題からしばし目を離して、心を神に向けましょう。
問題は今、山のようにあなたの前に立ちふさがっていますか。とても乗り越えられない断崖絶壁に見えますか。では信仰の目で主を見上げてください。主は言われました。
だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず・・・・・信じるなら、そのとおりになります。(マルコ11章23節)
困難や祈りの課題は、私たちの心を神に向ける絶好の機会です。
神は、いつでも、どんな時でも、私たちのことをご覧になって、私たちが祈り、語りかけるのを待っておられます。
神は私たちが祈る前から、私たちの必要をごぞんじです。
あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。(マタイの福音書5章7節)
神は私たちが何を必要としているのかを私たちよりも良く分かっておられます。私たちは目先のことしか分からず、自分にとって本当に大切なことが何なのか見極めることができません。
ですから、神に何かを注文するような祈りではなく、今のあなたの困難や悩みをありのまま知っていただくだけでいいのです。
祈ったら、神がどのような方法で、あなたのために最善を行なってくださるのかわくわくしながら待ちましょう。神はあなたが期待し、想像する以上に素晴らしいことを行なってくださるお方です。
神はいつでも、あなたの人生の様々な場面で、聖書を通してあなたに語りかけてくださいます。ですから、聖書をいつもあなたの身近において、読み、親しみ、心にとどめていましょう。
神があなたの人生を増々豊かにしてくださいますよう、私もご一緒にお祈りしています。祈ったなら全てを神の手にお任せして、感謝しましょう。
あなたは神に愛されているからです。
レックス・ハンバード祈りの家族
桜井剛