祝福のメッセージ:2016ー07

No.201607 

イエスの祈り

霊とまことによる礼拝と祈り

 「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」  (ヨハネの福音書4章23-24節)

 サマリヤの女に対して語られたイエスのことばは、祈りについて大切な真理を私たちに教えています。

神は真実な礼拝者を求めておられるのです。神が私たちにそれを求めておられるのは、私たちを本当に愛しておられるからにほかなりません。ですから、私たちの真実の礼拝を神は求めておられ、それを喜んで受け入れてくださるのです。ところが、私たちはいつも真実な礼拝を神に向けているでしょうか。

 サマリヤの人々は彼らの山で礼拝をすることが本当の礼拝だと思っていました。ユダヤ人たちはエルサレムの神殿で礼拝をすることが本当の礼拝だと信じていました。けれども、イエスはこう言われました。

 「あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。」(ヨハネの福音書4章21節)

 イエスは人々の三種類の違った礼拝の姿を指摘されました。

 1.何を礼拝しているのかを知らないままで礼拝している人々。

 2.熱心に良く学んで自分で理解したと思って礼拝している人々。

 3.霊とまことによって礼拝している人々。

 そして、霊とまことによって礼拝することこそ神が求めておられる真の礼拝者であり、本来あるべき祈りの姿であることを強調なさいました。

 「神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(24節)

 イエスは私たちがこのような真の礼拝者となれる道を開くためにこの世に来てくださったのです。ですから、私たちがイエスから祈りを学ぶための第一歩は、霊とまことによって祈るとはどのようなことかを知ることです。

 祈りは熱心でありさえすれば良いというわけではありません。どのような方に対して、祈っているのかはっきりと分からないままに、自分の願いを並び立てるような祈りはどんなに熱心な祈りであっても答えられる祈りとは言えません。また、自分が願っていることがどんなことかをはっきりと自覚しないまま祈っている場合もあります。熱心であるあまりに、いつの間にか聖なる全能の神を自分の命令に従う奴隷であるかのように扱っているのかも知れません。あるいは、聖書の正しい知識に基づいて熱心に祈る祈りであっても、正しさ熱心さの故に、全能者との霊的な関係へと踏み込めない祈りもあります。

 霊とまことによって礼拝するとは、神と礼拝者との間に霊的な調和がなければならないことを意味しています。目が光を受けとめて映像によって姿を知るように、また、耳が音声によって相手が何者か、何を伝えているのかを感知するように、私たちが永遠的な存在である神を知り敬う能力と心によって神と向き合って心を開くのです。時間の長さではありません。熱心さの度合いでもありません。聖書の知識の深さでもありません。神を神として知り、受け入れて心から礼拝するのです。そこに霊とまことによる祈りの関係が成り立つのです。

それは、私たちの努力や力によるのではありません。また、私たちの知恵や悟りによって到達するものでもありません。そのような深い霊的な関係は神から来るものだからです。

 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。(ヨハネ1章17-18節)

 それは、私たちの罪がイエス・キリストの十字架によって完全に贖われ、神の前に罪の無い者と見なされることによってのみ可能になるのです。罪のない完全な神の子の姿を持って私たちの間に立たれるイエス・キリストを通してのみ、私たちは神との深い関係に入ることができるのです。イエスはサマリヤの女にこう言われました。

 真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。

 神と私たちとの間の仲保者となってくださったイエスが来られたからこそ、私たちは神に近づくことができます。イエスが十字架によって私たちの罪の代価を支払ってくださったことによって私たちは神の前に出られるものとなったのです。

 今、私たちは神の前に大胆に進み出て神との交わり持つことができます。それはイエスを通してのみ可能となりました。

 私たちの熱心さも忠実さも知恵も悟りも、神の子イエス・キリストによる罪からの救いと清めなしでは罪の中に埋もれてしまって神の前に届くことはないからです。

 霊とまことによる礼拝と祈りは、私たちがイエス・キリストを救い主として心に受け入れ、聖霊を心に持つことによって、神との間に自然に生み出される霊的な調和です。そのときはじめて私たちの心は神の臨在の中で喜びに満たされ、この祈りはこたえられると確信することができます。イエスはどんなにか私たちにそれを経験させたいと願っておられることでしょう。

 

祈り

聖なる全知全能の主よ。私たちに祈ることを教えてくださって感謝します。

あなたは私たちのために御子イエス・キリストをおつかわしになり、あなたと私たちとの間をへだてていた罪をとりのぞいてくださいました。それによって、私たちの祈りはあなたの前に届くものとなりました。

どうか私たちがあなたに向かって霊とまことによって祈り、礼拝をすることができますよう、お導きください。あなたが罪の中にあった私たちを愛してこの世にお送りくださったイエス・キリストを私の唯一の救い主と信じます。あなたの霊を私の中に住まわせ、あなたとの深い交わりと礼拝を持てる者としてください。

イエス・キリストのお名前を通して、この祈りを御前におささげします。

アーメン。