No.201507
クリスチャンになった息子と無神論者の父との往復書簡
聖書はカトリック教会が編纂した経典ではないのか
親愛なるグレッグへ、
お前の大胆さには驚くよ。よくも世界チャンピオンのマラソンに挑戦したものだ。体にダメージが残らねばよいが。もうそんな危ない挑戦は最後にしてもらいたいものだ。
今年も来られないのかね。私が金持ちなら、毎年でも航空券を買って送ってやるのだが。
では、神学とやらの話に入ろうか。
忌々しいとは思うが、お前の言っていることは筋が通っていて認めないわけにはいかない。私が今まで抱いていたキリスト教に対する誤解を解いてくれたことは確かだ。けれども、まだ、旧約聖書の教えている神を認めることができたわけではない。ただ、これ以上は批判的になるのを避けて現実的に見ることにする。ただ、お前の最後の手紙を何回も呼んでいるうちに、また新たな疑問が湧いてきた。それは私が若いころ通っていたカトリックの教会で教えられていたことを思い出したからだ。私はこう教えられていた。
「プロテスタントの教会は聖書だけを信仰の頼りにしているので間違いに陥りやすい。聖書をまとめ上げたのはカトリックだからである。」5世紀頃、カトリック教会が数々の文書の中から、神のことばと呼ばれるにふさわしい書を選んで一冊の本にして聖書をつくりあげたというのは本当なのか。それなら、「プロテスタントはカトリックのおかげで自分たちの聖書を持つことが出来たのだ」ということになる。もし聖書が神のことばなら、なぜそのような成り立ち方をするのか。なぜ、このような重大なことを一つの集団に任せることができたのか。
私の記憶では、カトリックの司教たちが集まって議論し、多数決でどの書を聖書に加えるべきかを決めたそうだ。神のことばがそんな風に決められて良いものなのか。そんな決め方だと、聖書に加えられるにはふさわしくない書が入り、加えられるべき書が外されたかもしれないではないか。それなのに、プロテスタントがその聖書をそのまま受け継いでいるのはなぜか。しかも、カトリックの聖書にはプロテスタントの聖書より多くの書が加えてあるのはなぜなのか。
お前が説明してくれたキリストと聖書との関係は良く理解出来て、私に考えさせてくれたが、まだ疑問がたくさんあって、お前の言う信仰にはハードルが高すぎるようだ。
私のすべての愛をこめて、
父より
聖書はカトリック教会が編纂した経典ではないのか - に答えて
愛するお父さん、
今年の休暇もそちらへ行けなくてすみません。来年こそはきっと行きます。今から少しずつお金を貯めて用意しています。子どもたちもそちらへ行って、ディズニ―ランドを見たいと言っていますから、きっと実現するでしょう。
お父さんが、少なくともキリスト教の正当性を認め始めたのを知ってどんなにうれしいかわかりません。お父さんはもう的に入ったのと同じです。私も聖霊もお父さんを離しませんからお父さんには勝ち目はありません。
さて、お父さんの質問についてですが、またしても、お父さんは重大な誤解をしたか、間違った教えを信じてしまいましたね。聖書はカトリック教会が編纂したのではありません。けれども、お父さんが指摘した聖書の権威は確かに重要な問題点の一つです。
3世紀まで、聖書はそれぞれの書がバラバラに存在して、聖なる書物と呼ばれ教会で読まれていました。また、その中の二つの書物に対して意見が分かれていたことも事実です。けれども、大方の聖なる書物は3世紀までには確定して広く用いられ、当時の初代教会の指導者たちによってもそれらの書の権威がすでに認められていたのです。ですから、当時は聖なる書物はそれぞれが信仰の書として広く用いられていました。
それが、聖書という一つの書物(聖典)としてまとめられる必要があったのには、特別な事情がありました。
2世紀頃、マルキオンという異端者が現われて、聖なる書物の中から自分に都合のよいものだけを選んで、勝手に自分の信仰を編み出して人々を惑わし始めました。しかも、彼はユダヤ人を憎み、旧約聖書の書物は一切用いず、聖なる書の内容さえも自分の教えに都合のよいように勝手に変えていました。聖なる書物が間違って使われるようになったのです。それを憂慮した教会の指導者たちが権威ある聖なる書物だけを集めて聖書とし権威づけることにしたのです。それが確定したのは170年頃でした。それ以来、聖書の内容は現在の聖書とほとんど変わっていません。
お父さんの質問の中心は次の点ですね。聖なる書と呼ばれるにふさわしい書物だけが聖書に加えられ、そうでないものはひとつも加えられていないのか。その保証は確かにあるのか。残念ながら、それに対する決定的な答えはありません。
ただ、次の三つの点から、聖書は神の霊感を受けた書として安心して受け入れ、それに自分の信仰の全てをかけることができます。
第一に、神が聖書の成り立ちに関与しておられることを信じることができるからです。歴史上の全ての出来事は人類に対する神の救いのご計画に向かって働いています。
人類への神の語りかけとして聖書が成り立つ過程においても、それが人々に正しく届くよう神が導いて来られました。神を愛する人々の中からにじみ出た聖なる書物は、それが生まれる段階でも、聖典として成り立つ段階でも、神が働いておられたのです。
第二に、聖書そのものが持っている力です。歴史上多くの人が聖書を批判し、誤りや問題点を指摘しようとしましたが、それらは、自分たちの研究の甘さや不確実さを暴露する結果に終わりました。反対者たちは今日に到るまで聖書に厳しい目を向け、何とかこの世から消し去ろうとやっきになっています。しかし、聖書は厳然として存在し続けています。これからも、その試みは続けられるでしょう。それは歴史が証明します。こうした批判はかえって聖書の正しさを証明する試金石となりました。
第三に、聖典に加えられた聖なる書物が人類の宝として残されたのは、偶然でも簡単なことでもありませんでした。当時の信者たちはそれに命を賭けていました。誰がそれを書き、どのように権威づけられ、教会でどのように用いられ、その書物によって人々の人生がどう変えられていったか、それを見れば、聖書が特別な書物であることは明らかです。当時のクリスチャンたちはそれを神の霊感を受けた聖なる書物として守り続けていました。実際に聖書はそれを読んだ人々を罪の力から開放して生きる力を与え、人格を育て、今日にいたるまで多くの人々からの良い評価を受け続けてきました。
最後に、カトリックの聖書は聖書外典と呼ばれる書を加えているため我々の聖書と異なります。外典は、聖典としての権威は認められていませんが、有益な書として聖書に加えている場合があります。けれども、イエスも弟子たちもその書を引用したことはありませんでした。
たくさんの愛をこめて、
グレッグより